いざ 生き め や も。 短歌雑記帳|新アララギ

いざの使い方、ほかの品詞の結びつき|日本語コロケーション辞典

いざ 生き め や も

この言葉は間違っているというのが私の持論です。 「めや」という助詞は「……だろうか、いや……ではあるもんか」という反語に使います。 「いざ」は感動詞。 「生き」はカ行上二段活用動詞「生く」の未然形。 「め」は推量・意志の助動詞「む」の已然形。 「や」は反語の係助詞「や」。 「も」は詠嘆の係助詞「も」。 となり、「風立ちぬ(=風が吹きだした)」に続く言葉として、まったく逆の内容になります。 だから、この表現は日本の伝統的表現どおりに訳すと、間違っているということになります。 では、このように飜訳した人は、どういうつもりで訳したかと臆測すると、反語ではなく、単に疑問として使用したのではないでしょうか。 「めや」を反語として使うなら、 「いざ、生きざらめやも」 となければ意味が通じません。 私もzhuben yimingさんと同じ意見です。 「いざ」と「めやも」がどうしても上手くつながりません。 「いざ」は「さあ」で、相手を誘って一緒に何かを始めたり、思いきって行動するときに発する言葉ですね。 「めやも」は反語の意味に詠嘆の意味を添えたものですから、「〜だろうか、いや、そうではないなあ」 「いざ」と「めやも」を一緒に使うこと自体、無理があるのではないかと思います。 「いざ生きめやも」を現代語に直してみると、そのことがよくわかります。 「さあ、生きるのだろうか、いや、生きるのではないなあ」となってしまいます。 なぜ、ここで「めやも」を使うのか、その意図がまったく見えません。 「さあ、生きよう」という意味ならば、「いざ生かむ」でよかったのではないかと思います。

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【風立ちぬ】いざ生きめやもの意味と誤訳だと言われている理由|おさるの空飛ぶリンゴの見つけ方!

いざ 生き め や も

おばさんは後期高齢者。 花の盛りはとうに過ぎ、枯れ行く期間真最中。 人生の店じまいも間近と思いきや、降ってわいたような「人生 100年」話。 健康・お金・終の棲家に人間関係。 長引く老後に戸惑うばかりだ。 とりまく自然も容赦ない。 大雨、地震、土砂崩れ。 伏兵までも送り込む。 「新型コロナウイルス」の出現だ。 銃もお金も太刀打ちできない。 しかし、人類と感染症ウイルスとの闘いは、今に始まったことではない。 人間にとってウイルスは脅威だが、マイナス面だけでもなさそうだ。 「感染症と文明」(山本太郎著 岩波書店)によれば、 14世紀に欧州全域で流行したペストでは、急激な人口減少を招き、農民も急減。 その結果、荘園労働者の賃金は上昇、農民の立場が強くなり、荘園制度は崩壊。 ペストの脅威を防げなかった教会の権威は失墜し、封建的身分制度は解体に向かったという。 中世という時代が終わり、新しい価値観が次の時代を開いていった。 さて、アフターコロナ社会のしくみはどう変わっているだろう。 老いの残存能力で新時代の情報をフルキャッチできるなら、枯れきる前の晩年を黄金期に変えることも不可能ではなさそうだ。

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風立ちぬ、いざ生きめやも。

いざ 生き め や も

堀辰雄の小説「風立ちぬ」の冒頭近くで語られる有名な台詞「風立ちぬ、いざ生きめやも」。 これは美しい響きの言葉であり、印象深い句なのだが、誤訳であることでもよく知られている。 原詩のほうは、一般的によく使われるフランス語の言いまわしで、特に難しいものではない。 英語に訳すと、「The wind is rising, you should try to live」くらい。 後ろの句の主語は本来はweなんだろうけど、この句は自分に言い聞かすような言葉なので、youのほうがいいとは思う。 それで和訳すると、「風が起きた、生きることを試みねばならない」の意味となる。 要するに、吹いた風を契機に、著者の「生きるぞ!」との決意を現わしているのである。 ところで、堀辰雄はここの部分を、「いざ、生きめやも」と訳している。 「生きめやも」は「生き+む(推量の助動詞)+やも(助詞『や』と詠嘆の『も』で反語を表す)であり、現代語になおすと「生きるのかなあ。 いや、生きないよなあ」となる。 ダイレクトに訳してしまえば、「死んでもいいよなあ」であり、つまりは生きることへの諦めの表現である。 「生きめやも」を逆にフランス語に訳せば、Vous ne devez pas tenter de vivre. くらいになるだろうけど、いずれにせよ、己の生への強い意志を詠じた原詩とはまったく反対の意味になってしまう。 それゆえ、堀辰雄の「いざ生きめやも」は誤訳の典型として知られてきており、例えば大野晋、丸谷才一の両碩学による対談で「風立ちぬ」が取りあげられたとき、両者により、堀辰雄は東大国文科卒のわりには古文の教養がないと、けちょんけちょんにけなされている。 ただ、誤訳といえば、誤訳ではあろうけど、私は小説「風立ちぬ」では、「生きめやも」でもいいと思う。 結核に冒された人達の生活を描いたサナトリウム文学を代表として、結核患者が著書の作品には独特の世界が広がっている。 結核は抗生物質のある現代では治療の方法のある感染症の一つであるが、20世紀前半までは、効果的な治療法のない死病であった。 今の感覚でいえば、末期癌のようなものであり、これに罹ったものは、自身の命を常に見つめて生きていくことになる。 それゆえ、結核患者の作品は、短く限られた命を真摯に見つめ、その貴重な時を文章に凝集させていくため、清明でありながら密度が濃い、独自の文学を創造している。 彼らの残した作品は、堀辰雄をはじめ、梶井基次郎、立原道造、富永太郎、…と日本近代文学の珠玉の宝物となっている。 そういった人たち、毎日死と向き合っていた人たちの作品として、「風立ちぬ」を読んでみれば、季節の移り変わりに吹いた風に、「生きよう」という意思が立ちあがるとは思えず、季節の流れとともにこのまま静かに命が消えても、という感慨が起きても不思議ではなく、かえって自然な感情とも思える。 元々「風立ちぬ」は軽井沢の療養所で、死を迎えいく若い男女の、残された日々の静謐な生活を描いたものであり、「il faut tenter de vivre」という能動的な精神はどこにもなかった、と思う。 ヴァレリーの原詩では、いくつもの魂の眠る墓地に地中海から風が吹き付け、そこで著者は「生きねばならない」という強い意思を抱くわけであるが、軽井沢の森に吹いた秋の訪れを知らせる風は、地中海の風のようにある意味精神を鞭打つような剛毅なものとはほど遠く、もっと人の心に寄り添うような、人に赦しを与えるようなやさしいものであったには違いない。 それゆえ堀辰雄は、吹く風にヴァレリーの詩を想起したとき、敢えてあのように訳したのでは。 「風立ちぬ」という不朽の名作につきものの誤訳問題。 いろいろと意見はあるようだが、私は堀辰雄を擁護したい。 堀辰雄著.

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