ひむか の 風 に さそ われ て。 宮崎県:わたしたちの住(す)んでいる宮崎県

奥の細道の足跡

ひむか の 風 に さそ われ て

タマムシは、ピカピカの 金属 きんぞく 光沢 こうたくが 美 うつくしい、インスタ 映 ばえする 昆虫 こんちゅうだ。 その 輝 かがやく 体 からだの 色 いろは、 光 ひかりの 反射 はんしゃ(はねかえること)によってうまれ、 構造色 こうぞうしょくと 呼 よばれている。 見 みる 角度 かくどによって 違 ちがう 色 いろに 見 みえるのは、このためなんだ。 森 もりで 出逢 であえると、テンションがアガる 虫 むしの 代表種 だいひょうしゅ。 観察会 かんさつかいでも 人気者 にんきものである。 成虫 せいちゅうはエノキやケヤキなどの 葉 はを 食 たべるので、 高 たかい 所 ところを 飛 とんでいることが 多 おおいようだ。 しかし、 森 もりで 切 きられた 材木 ざいもく 置 おき 場 ばに 集 あつまる 姿 すがたも、よく 見 みかける。 切 きり 口 くちからの 香 かおりに 誘 さそわれて 集 あつまってくるのだろう。 捕 つかまえるならこういった 場所 ばしょがオススメだが、 管理 かんりしている 人 ひとに 許可 きょかを 得 えてからにしよう。 分類 ぶんるい:コウチュウ 目 もく タマムシ 科 か 学名 がくめい:Chrysochroa fulgidissima 漢字名 かんじめい: 玉虫 たまむし 別名 べつめい:ヤマトタマムシ・ 吉丁虫 きっちょうむし 大 おおきさ:25~40 mm ミリメートル 成虫 せいちゅうの 見 みられる 時期 じき:6~9 月 がつ 見 みられる 場所 ばしょ:ケヤキやエノキが 生 はえている 林 はやし 分布 ぶんぷ: 本州 ほんしゅう・ 四国 しこく・ 九州 きゅうしゅう・ 沖縄 おきなわ レッドリスト: 準絶滅危惧 じゅんぜつめつきぐ( 東京都 とうきょうと・ 宮城県 みやぎけん・ 茨城県 いばらきけん・ 群馬県 ぐんまけんなど)・ 要注意種 ようちゅういしゅ( 神奈川県 かながわけん) タマムシの 光 ひかり 輝 かがやく 姿 すがたは、 昔 むかしから 人々 ひとびとを 魅了 みりょうし、 色々 いろいろな 装飾品 そうしょくひんに 使 つかわれたようだ。 なかでも 法隆寺 ほうりゅうじ( 奈良県 ならけん)にある 国宝 こくほう「 玉虫厨子 たまむしのずし」は、 教科書 きょうかしょにも 登場 とうじょうするので、みんなも 知 しっているかもしれない。 虫 むしが 宝物 たからものになるなんて、 驚 おどろきだね! クリックリなお 目々 めめも 愛 あいらしい。 いくつかの 都道府県 とどうふけんのレッドリスト( 絶滅 ぜつめつのおそれのある 野生生物 やせいせいぶつのリスト)では、 要注意種 ようちゅういしゅや 準絶滅危惧種 じゅんぜつめつきぐしゅとされている。 いつまでもその 美 うつくしい 姿 すがたが見られるように、たくさん 捕 とりすぎないようにしよう。 タマムシのぬりえ.

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忠臣蔵の浅野匠守の辞世の句の意味をおしえてください

ひむか の 風 に さそ われ て

奥の細道の足跡 おくのほそ道• 夏休みは何処へ行こうか、何をしようか?何時ものように考え耽っていた。 時間はいっぱいある。 そんな思いをしているときに、自転車で日本縦断するニュースを聞いた。 中学生ですか、頑張っているなー!HPをみていたら、日本一周12,000キロ自転車の旅をみつける。 これに関する本を探しに行く。 HP では様々な方が挑戦し、その報告があるのに?日本一周も面白いぞ!息子の自転車を借り、トレーニングに出発。 疲れる、大変だ!12,000キロどころではない。 50キロ60キロの世界でアップアップだ。 狭山湖一周や玉川上水、多摩川50キロ、払沢の滝などなど、トレーニングを兼ねて様々な場所を走った。 こんなことを繰り返しながら2年がたった。 体力、気力ともに充実し、これなら回れるかも? しかし、1日100キロ走っても4ヶ月かかる。 長すぎる。 途中で断念する可能性大である。 もっと短い1000キロ程度のコースは無いものか再度書店へ出向く。 このころになると日に1回、面白い読み物がないか物色していた。 あった!「奥の細道」松尾芭蕉と曾良の旅である。 320年ぐらい前の旅である。 600里 2,400キロ の行脚の旅!電車で近くの駅、そして自転車で「奥の細道」の句碑の写真を撮る。 句碑のほとんどは神社や寺院の境内にある。 正確な場所も地図からMAPコードとして得られる。 近くの駅からナビに案内してもらう。 これなら、2,400キロを電車と自転車、 徒歩で句碑を撮って回る事は出来るだろう。 … そして、第1日目「奥の細道」の資料と出発地点の確認をしに江戸深川へ向かう。 初めの一歩である。 私の歩く道は「奥の細道」と同じ道ではない。 ときには同じ街道を歩き、 時には、船の代わりに電車、馬の代わりに自転車で回り「歌まくら」を求め旅を始めた。 H23年5月 月日は 百代 はくだい )の 過客 かかく )にして、 行 ( ゆ )きかふ 年 ( とし )もまた 旅人 ( たびびち )なり。 舟の上に 生涯 ( しょうがい )をうかべ馬の口とらへて 老 ( おい )を 迎 ( むか )ふる物は、日々旅にして旅を 栖 すみか )とす。 古人 ( こじん )も多く旅に死せるあり。 予 ( よ )もいづれの年よりか、 片雲 ( へんうん )の風に 誘 ( さそ ) われて漂泊の思ひやまず、 海浜 ( かいひん )にさすらへ、 去年 こぞ )の秋、 江上の 破屋 ( はおく )に 蜘 くも ) の 古巣 ふるす )をはらひて、やや年も 暮 ( くれ )、春 立 ( た )てる 霞 かすみ )の空に、 白川 ( しらかわ )の関 越 ( こ )えんと、そぞろ神の 物 ( もの )につきて心をくるはせ、 道祖神 ( どうそじん )の招きにあひて、 取 ( と )るもの手につかず、ももひきの 破 ( やぶ )れをつづり、笠の 緒 ( お )つけかえて、 三里 ( さんり )に 灸 ( きゅう )すうるより、松島の月 先 ま )づ心にかかりて、 住 ( す )める 方 ( かた )は人にゆづり、 杉風 さんぷう )が 別墅 べっしよ )に移るに、 "草の戸も 住みかはる代ぞ ひなの家" (くさのともすみかえるよぞひなのいえ) 面 おもて ) 八句 はっく )を 庵 いおり )の柱にかけおく。 2.採茶庵 そして、"奥の細道"の出立の場所と なった海辺橋のたもとの採茶庵へ移り住む。 弥生 やよい )も末の七日、明ぼのの空 朧々 ろうろう ) として、月は 有明 ありあけ )にて、光をさまれるものから、 不二 ふじ )の峯 幽 かす ) かに見えて、上野・ 谷中 ( やなか )の花の 梢 こずえ )またいつかはと心ぼそし。 むつましきかぎりは 宵 よい )よりつどひて、舟に乗りて送る。 千住 ( せんじゅ ) といふ所にて舟をあがれば、 前途三千里 ( ぜんとさんぜんり ) のおもひ胸にふさがりて、 幻 ( まぼろし )のちまたに 離別 りべつ )の 涙 なみだ )をそそぐ。 "行く春や 鳥啼き魚の 目は涙" いくはるや とりなきうおの めはなみだ これを 矢立 やたて )の 初 はじ ) めとして、行く道なを進まず。 人々は途中に立ちならびて、 後 うしろ ) かげの見ゆるまではと 見送 みおく )るなるべし。 ことし、 元禄二 ( げんろくふた )とせにや、 奥羽長途 ( おううちょうど )の 行脚 あんぎゃ )、 只 ただ ) かりそめに思ひ立ちて、 呉天 ごてん )に 白髪 はくはつ )の 恨 うらみ )を 重 ( かさ ) ぬといへども、耳にふれて、いまだ目に見ぬさかい、 若 も ) し生きて帰らばと、 定 さだめ )なき 頼 たのみ )の 末 すえ )をかけ、 その日 漸 ようよ )う 草加 さうか ) というふ 宿 しゅく )にたどり 着 つき )にけり。 痩骨 そうこつ )の肩にかかれる物 先 ま )づ苦しむ。 只 ただ )身すがらにと 出立 いでたち ) 侍 はべ )るを、 紙子一衣 かみこいちえ ) は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたき 餞 はなむけ )などしたるは、さすがに 打捨 うちすて )がたくて、 路次 ろじ )の 煩 わずら )ひとなれるこそわりなけれ。 私も芭蕉たちの跡を辿ってみようと、此処千住の"奥の細道"の 出発地点といわれている所へ来てみた。 に 詣 けい )す。 同行曾良 どうぎょうそら )がいはく、 「この神は 木の花 ( こ はな )さくや姫の神と 申 もう )して、 富士一躰 ふじいつたい )なり。 無戸室 うつむろ )に入て焼やき 給 ( たま )ふ 誓 ちか )ひのみ中に、 火々出見 ほほでみ )のみこと生れ給ひしより、室の八島と 申 もう )す。 また煙を 詠 よ )みならはし 侍 はべ )るもこの 謂 いは )れなり。 はた、このしろといふ魚を禁ず。 縁起 えんぎ )の 旨 むね )、世に伝ふ事も 侍 はべり )し。 "糸遊に 結びつきたる けぶりかな" (いとゆうに むすびつきたる けぶりかな) この句が奥の細道の句の中に入っていない…? 卅日 みそか )、日光山の麓に泊る。 あるじのいひけるやう、 「わが名を ほとけござえもん といふ。 よろづ正直を旨とする 故 ゆえ )に、人かくは 申 ( もう )し 侍 はべ )るまま、一夜の草の枕も 打ち解けて休み給へ。 」といふ。 いかなる仏の 濁世塵土 じょくせじんど )に 示現 じげん )して、かかる 桑門 そうもん )の 乞食順礼 こつじきじゅんれい )ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をととめてみるに、 唯無智無分別 ただむちむふんべつ )にして、正直 偏固 へんこ )の者なり。 剛毅木訥 ごうきぼくとつ )の 仁 じん )に近きたぐひ、 気稟 きひん )の 清質 せいしつ )もつとも尊ぶべし。 卯月朔日 うづきついたち )、 御山 おやま )にも 詣拝 けいはい )す。 往昔 そのかみ )この御山を 二荒山 ふたらやま )と書きしを、空海大師は開基の時、「日光」と 改 あらため )給ふ。 千歳未来 せんざいみらい )をさとり給ふにや、今この 御光 みひかり )一天にかかやきて、 恩沢 おんたく ) 八荒 はっこう )にあふれ、 四民 ( しみん )、 安堵 あんど )の 栖 すみか ) 穏 おだや )かなり。 なお、 憚 はばか )り多くて、筆をさし置きぬ。 "あらたふと 青葉若葉の 日の光" (あらたふと あおばわかばの ひのひかり) 黒髮山 ( くろかみやま )は、 霞 ( かすみ )かかりて、雪いまだ白し。 "剃り捨てて 黒髪山に 衣更" 曾良 ( そら ) (そりすてて くろかみやまに ころもがえ) 曾良 ( そら )は 河合氏 かわいうじ )にして 惣五郎 そうごろう )といへり。 芭蕉の 下葉 したば )に 軒 のき )をならべて、 予 ( よ )が 薪水 しんすい )の労をたすく。 このたび松島・ 象潟 きさかた )の 眺 ながめ )共にせんことを 悦 よろこ )び、かつは 羈旅 きりょ )の 難 なん )をいたはらんと、旅立 暁 あかつき )、髪を剃りて 墨染 すみぞめ )にさまをかへ、惣五を改めて宗悟とす。 よつて黒髪山の句あり。 衣更 ( ころもがえ )の二字、力ありてきこゆ。 廿余丁 にじゅうよちょう )、山を登つて滝あり。 岩洞 がんどう )の 頂 いただき )より飛流して百尺、 千岩 せんがん )の 碧潭 へきたん )に落たり。 岩窟 ( がんくつ )に身をひそめ入りて滝の裏よりみれば、うらみの滝と申し伝へ 侍 はべ )るなり。 "しばらくは 滝に籠るや 夏の初" (しばらくは たきにこもるや げのはじめ) 那須 ( なす )の 黒羽 ( くろばね )といふ所に知る人あれば、 是 これ )より 野越 のご )えにかかりて、 直道 すぐみち )を行かんとす。 遥 はる )かに 一村 いっそん )を見かけて行に、雨降り日暮るる。 農夫の家に一夜をかりて、 明 あ )くればまた野中を行く。 そこに 野飼 のがひ )の馬あり。 草刈 くさか )るをのこになげきよれば、 野夫 やぶ )といへども、さすがに 情知 なさけし )らぬには あらず。 「いかがすべきや。 されどもこの野のは 縦横 じゅうおう )にわかれて、うひうひしき旅人の道ふみたがえん、 あやしうはべれば、この馬のとどまる所にて馬を返し給へ。 」と貸しはべりぬ。 ちひさき者ふたり、馬の 跡 あと )したひて走る。 ひとりは 小姫 こひめ )にて、名を「かさね」といふ。 聞きなれぬ名のやさしかりければ、 "かさねとは 八重撫子の 名成るべし" (かさねとは やえなでしこの ななるべし) 曾良 ( そら ) やがて人里に至れば、あたひを 鞍 くら )つぼに 結 むす )びつけて馬を返しぬ。 黒羽 ( くろばね )の 館代浄法寺 かんだいじょうほうじ )何がしの方に 音信 おとず )る。 思ひがけぬあるじの 悦 ( よろこ )び、 日夜語 にちやかたり )つづけて、その弟 桃翠 とうすい )などいふが、 朝夕勤 あさゆうつと )めとぶらひ、 自らの家にも 伴 ともな )ひて、 親属 しんぞく )の 方 かた )にも招かれ、日をふるままに、ひとひ 郊外 こうがい )に 逍遥 しょうよう )して、 犬追物 いぬおうもの )の跡を 一見 ( いっけん )し、 那須 ( なす )の 篠原 ( しのはら )をわけて、 玉藻 たまも )の前の古墳をとふ。 それより 八幡宮 ( はちまんぐう )に 詣 もう )づ。 与市 ( よいち ) 扇 おうぎ )の 的 ( まと )を 射 い )し時、「別してはわが国 氏神正八幡 うじがみせいはちまん )」とちかひしも、この神社にて 侍 はべ )ると聞ば、 感応 かんおう ) 殊 こと )にしきりに覚えらる。 暮 くる )れば桃翠宅に帰る。 修験 しゅげん ) 光明寺 ( こうみょうじ )といふあり。 そこにまねかれて 行者堂 ぎょうじゃどう )を拝す。 "夏山に 足駄を拝む 首途哉" (なつやまに あしだをおがむ かどでかな)。 当国 ( とうこく ) 雲巌寺 うんがんじ )のおくに、 仏頂和尚山居 ぶっちょうおしょうさんきょ )の 跡 ( あと )あり。 「 竪横 たてよこ )の五尺にたらぬ草の 庵 いお ) むすぶもくやし雨なかりせば と松の 炭 すみ )して岩に書きつけはべり。 」と、いつぞや 聞 ( きこ )え給ふ。 その 跡 ( あと )みんと 雲巌寺 ( うんがんじ )に 杖 ( つえ )を 曳 ひ ) けば、 人々 ( ひとびと ) 進 ( すす )んで共にいざなひ、 若 ( わか )き人多く 道 ( みち )のほどうちさわぎて、おぼえずかの 麓 ふもと )に 到 いた )る。 山はおくあるけしきにて、 谷道遥 たにみちはる )かに 松杉 まつすぎ )黒く 苔 こけ )しただりて、 卯月 うづき )の 天 てん ) 今 ( いま )なほ寒し。 十景 ( じゅけい ) 尽 つく )る所、 橋 ( はし )を 渡 ( わた )って 山門 ( さんもん )に 入 ( い )る。 さて、かの 跡 ( あと )はいづくのほどにやと、 後 うしろ )の山によぢのぼれば、 石上 せきじょう )の 小庵 しょうあん )、 岩窟 がんくつ )にむすびかけたり。 妙禅師 みょうぜんじ )の 死関 しかん )、 法雲法師 ほううんほうし )の 石室 せきひつ )を見るがごとし。 "木啄も庵はやぶらず夏木立" (きつつきも いおはやぶらず なつこだち) と、とりあへぬ一句を柱に残し 侍 はべ )りし。 (へ向かう。 黒羽は、まだまだ多くの句碑がある。 今回は、矢板から、自転車で黒羽を廻ってみることにした。 "秣負ふ 人を枝折の 夏野哉" (まぐさおふ ひとをしおりの なつのかな) 此処は、芭蕉と曾良を持成した"翠桃邸跡"である。 大きな説明板とその前のお墓であった。 東北地震の影響は、各地に 様々な被害をもたらした。 常念寺さんも少しづつ修復をしているようだった。 "野を横に 馬引きむけよ ほととぎす" (のをよこに うまひきむけよ ほととぎす) 此処は、奥の細道とは縁があるわけではないが、あまりにも立派で、 また涼しそうな感じだったので、しばらく休憩として散策。 思った以上に素晴らしかった。 まだまだ、知らない俳句がある。 東京の芭蕉記念館で観た"奥の細道"の俳句は 50数首だったような気がする。 この黒羽は特に長く滞在していたため、 思った以上の収穫であった。 "田や麦や 中にも夏の ほととぎす" (たやむぎや なかにもなつの ほととぎす) この後のスケジュールから、雲巌寺の「啄木鳥も庵はやぶらす夏木立」の句碑は、 またの機会とした。 残念である。 曇り時々にわか雨の天気予報は外れ、 35度の猛暑であったことも次回にまわした大きな理由である。 初めから、宇都宮で宿泊して翌日、自宅へ帰る予定でいたので なぜか、焦らず、ゆっくりと自転車を走らせた。 帰りのコースは 小さな峠を5か所ぐらい超えての60キロは大変でした。 今日は、良く走ったので"ビール"2杯とした。 浄法寺高勝邸(黒羽藩家老で芭蕉から俳句の指導を受けていた)の鶴の絵を見て、 鶴の鳴き声で絵の中の芭蕉の葉も破れ散ってします。 と詠んだ句。 "鶴鳴や 其声に芭蕉 やれぬべし" (つるなくや そのこえにばしょう やれぬべし) "山も庭も 動き入るや 夏座敷" (やまも にわも うごきいるや なつざしき) 芭蕉は元禄二年四月三日黒羽を訪れ十四日間滞在し、その間に歌仙の興行があった。 秣お小人を枝折の夏野哉 を発句とした三十六句の中から、明王寺の境内に最も相応しい句として、 "今日も又 朝日を拝む 石の上" (きょうもまた あさひをおがむ いしのうえ) を選び石に刻んだ。 これより 殺生石 せっしょうせき )に 行 ( ゆ )く。 館代 かんだい )より馬にて送らる。 この 口付 くちつき )のおのこ、「 短冊 たんざく ) 得 ( え )させよと。 」 乞 ( こ )ふ。 やさしき事を 望 のぞみ ) 侍 はべ )るものかなと、 "野を横に 馬引きむけよ ほととぎす" (のをよこに うまひきむけよ ほととぎす) 殺生石は 温泉 いでゆ )の 出 い )づる 山陰 やまかげ )にあり。 石の 毒気 どくき )いまだほろびず、 蜂 はち )・ 蝶 ちょう )のたぐひ、 真砂 まさご )の色の見えぬほどかさなり死す。 また、 清水 しみず )ながるるの 柳 ( やなぎ )は、 蘆野 あしの )の里にありて、田の 畔 くろ )にのこる。 この所の 郡守 ぐんしゅ )、 戸部某 こほうなにがし )の、 「この柳みせばや」など、 折々 おりおり )にのたまひ 聞 ( きこ )え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、 今日 ( きょう )この柳のかげにこそ 立 ( た )ちより 侍 はべ )りつれ。 "田一枚 植て立去る 柳かな" (たいちまい うえてたちさる やなぎかな)。 境の明神の地に二社ある。 その一つは天喜元年(1053年)四月十四日、 紀州和歌の浦玉津島神社を歓請したと伝えられている。 祭神は衣通姫(そとおりひめ) である古代国境には住吉神社(中筒男命:なかつつおのみこと)と玉津島神社の 両神を祭ることが慣わしであったという。 京の都と奥州を結ぶ道は、古代には 東山道(のち関街道)があり、伊王野谷を流れる三蔵川を北上し白河の関に至る道である。 途中の追分には追分明神(住吉玉津神社という)が鎮座している。 祭神は衣通姫である。 中世(鎌倉時代)には鎌倉と奥州を結ぶ奥大道(おくのだいどう:鎌倉街道)が確認されている。 さらには奥州道中の前身(芦野では往古海道の呼称がある)がいくつかの紀行文から知られている。 近世(江戸時代)になって江戸と奥州を結ぶ奥州街道が整備され、参勤交代をはじめ交通、 流通の基幹として多くの人馬の往来があった。 境の明神は、このような時代背景の中、旅する人々によって道中安全の神として 信仰の対象となったものである。 近年、境明神の二社をめっぐって祭神の異説があるが、 江戸時代の文献には二社とも「大明神」「玉津島神社」とし、 宿村大概帳や奥州道中分間延絵図には、関東側を玉津島神社とし、 奥州側を境明神としている。 境の明神に二社が並立しての存在が確認できるのは極めて稀である。 説明板より 境の明神の由緒は不詳であるが、文禄四年(1595)に当時白河を 支配していた会津藩主蒲生氏が社殿を造営している。 現存するのは弘化元年(1844)に 建てられた小祠である。 奥州街道は五街道の一つで、奥州・越後などの諸大名が参勤交代で通行し 旅人や商人などの往来も盛んであった。 このため道中の安全を祈り、和算額を奉納したり、 灯篭や碑の寄進なども盛んに行われた。 境内には越後新発田藩溝口家や南部藩士などが寄進した 灯篭が並び、 松尾芭蕉の "風流の はじめや奥の 田植え唄" (ふうりゅうの はじめやおくの たうえうた) などの句碑や歌碑も多く建立されている。 玉津島明神(女神:衣通姫「そとおりひめ」)と住吉明神(男神:中筒男命「なかつつおのみこと」) は、国境の神・和歌の神として知られ、女神は内(国を守る)、男神は外(外敵を防ぐ) という信仰に基づき祀られている。 このため、陸奥・下野ともに自らの側を「玉津島を祀る」 とし、反対側の明神を「住吉明神を祀る」としている。 説明板より。 心 ( こころ )もとなき日かず 重 かさ )なるままに、 白河 ( しらかは )の 関 ( せき )にかかりて 旅心 たびごころ ) 定 さだ )まりぬ。 いかで 都 ( みやこ )へと 便 たよ )り 求 もと )めしもことわりなり。 中にもこの 関 ( せき )は 三関 さんかん )の 一 いつ )にして、 風騒 ふうそう )の 人 ( ひと )心をとどむ。 秋風を耳に残し、 紅葉 ( もみじ )を 俤 おもかげ )にして、青葉の 梢 こずえ )なほあはれなり。 卯 う )の花の 白妙 しろたえ )に、 茨 いばら )の花の 咲 ( さ )きそひて、雪にもこゆる 心地 ここち )ぞする。 古人 こじん ) 冠 かんむり )を 正 ただ )し、 衣装 いしょう )を 改 あらた )めし事など、 清輔 きよすけ )の筆にもとどめ 置 ( お )かれしとぞ。 "卯の花を かざしに関の 晴れ着かな" 曾良 ( そら ) (うのはなを かざしにせきの はれぎかな) 白河の関では、曾良の句のみを残し、芭蕉自身の句は残していない。 これより「みちのく」芭蕉と曾良の二人はどんな思いで、 この白河の関所を越えたのであろうか? 現在では、車で簡単に行くことができるが1689年ごろは馬に乗る程度である。 芭蕉もこの旅で馬に乗った記録はあるが、それでも 大変な思いで「みちのく」へ入って行ったと思う。 その昔、多くの文人たちが"歌枕"を求めてみちのくへ足を 踏み入れ感激し、歌を詠み旅に命をささげたことだろうか。 現在では、電車や車で簡単に行けるところである。 …… そして、 今、私は芭蕉と曾良が通った此の に来ている。 文明十三年(1481年)白河城主結城政朝が鹿嶋神社の神前で一日一万句の連歌興行を催した。 これを伝え聞いた都で名高い連歌の宗匠、宗祇法師が、はるばら奥州にくだり、三十三間堂の前を通り、 一女性に行きあい鹿嶋連句の終了を告げられた。 その時宗祇は女の背負っていた綿を見て「売るか」と問うたところ、 女はすぐに「阿武隈川の川瀬に住める鮎にこそうるかといへるわたはありけれ」と和歌で答えた。 これを聞いて宗祇は東奥の風流に感じ、ここから都へ引き返したと言い伝えられています。 "早苗にも 我色黒き 日数哉" (さなえにも われいろくろき ひかずかな) 芭蕉が白河の関を越えたおりの句で、須賀川から 白河の俳人可云(かうん)に当てたてがみのなかにあります。 (説明板より) とかくして、 越行 こえゆ )くままに、 阿武隈川 ( あぶくまがわ )を 渡 ( わた )る。 左 ( ひだり )に 会津根 あいづね )高く、右に 岩城 いわき )・ 相馬 そうま )・ 三春 みはる )の 庄 しょう )、 常陸 ひたち )・ 下野 しもつけ )の地をさかひて山つらなる。 (かげぬま)といふ 所 ( ところ )を 行 ( ゆ )くに、 今日 ( きょう )は空 曇 くも )りて 物影 ものかげ )うつらず。 須賀川 ( すかがわ )の 駅 ( えき )に 等窮 とうきゅう )といふものを 尋 たづ )ねて、 四五日 ( しごにち )とどめらる。 先 ま )づ、「白河の関いかに越えつるや。 」と 問 と )ふ。 「 長途 ちょうど )の 苦 ( くる )しみ 身心 ( しんじん )つかれ、かつは風景に 魂 たましい )うばはれ、 懐旧 かいきゅう )に 腸 はらわた )を 断 た )ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。 "風流の 初やおくの 田植うた" (ふうりうの はじめやおくの たうえうた) 無下 むげ )にこえんもさすがに。 」と 語 ( かた )れば、 脇 わき )・ 第三 だいさん )とつづけて、 三巻 みまき )となしぬ。 この 宿 ( しゅく )の 傍 かたわら )に、大きなる 栗 ( くり )の 木蔭 こかげ )をたのみて、世をいとふ僧あり。 橡 とち )ひろふ 太山 みやま )もかくやと 間 しづ )かに 覚 ( おぼ )えられて、ものに 書 ( か )き 付 つ )け 侍 はべ )る。 その 詞 ことば )、 栗 ( くり )といふ 文字 ( もじ )は、西の木と 書 ( か )きて 西方 さいほう ) 浄土 じやうど )に 便 たよ )りありと、 行基菩薩 ( ぎょうぎぼさつ )の一生 杖 ( つえ )にも柱にもこの木を 用 もち )ひ 給 たま )ふとかや。 "世の人の 見付ぬ花や 軒の栗" (よのひとの みつけぬはなや のきのくり) 等窮 とうきゆう )が 宅 たく )を 出 い )でて五里ばかり、 檜皮 ひわだ )の 宿 しゅく )を離れて、 (あさかやま)あり。 路 みち )より近し。 このあたり沼多し。 かつみ 刈 かる )ころもやや近うなれば、「いづれの草を花かつみとはいふぞ。 」と人々に 尋 たづ )ね 侍 はべ )れども、 更 さら )に 知 し )る人なし。 沼を 尋 たづ )ね、人にとひ、かつみかつみと 尋 たづ )ねありきて、日は山の 端 は )にかかりぬ。 二本松 ( にほんまつ )より右にきれて、 黒塚 くろづか )の 岩屋 いはや ) 一見 ( いっけん )し、福島に 宿 やど )る。 あくれば、しのぶもぢ 摺 ずり )の石を 尋 たづ )ねて 忍 ( しの )ぶの里に 行 ゆ )く。 遥 はる )か 山陰 やまかげ )の 小里 こざと )に石 半 なか )ば土に 埋 うず )もれてあり。 里の 童 わら )べの 来 ( きた )りて 教 をし )へける、「昔はこの山の上に 侍 はべ )りしを、 往来 ゆきき )の人の 麦草 むぎくさ )をあらしてこの石を 試 こころ )み 侍 はべ )るをにくみて、この谷につき 落 ( おと )せば、石の 面 おもて ) 下 しも )ざまにふしたり。 」といふ。 さもあるべき事にや。 "早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺" (さなへとる てもとやむかし しのぶずり) 月の輪のわたしを 越 こ )えて、 瀬 せ )の 上 ( うへ )といふ宿に 出 い )づ。 佐藤庄司 さとうしょうじ )が 旧跡 ( きゅうせき )は左の 山際 やまぎわ )一里半ばかりにあり。 飯塚 いひづか )の里 鯖野 さばの )と 聞 ( き )きて、 尋 ( たづ )ね 尋 ( たづ )ね行くに、 丸山 ( まるやま )といふに 尋 たづ )ねあたる。 これ 庄司 ( しょうじ )が 旧館 ( きゅうかん )なり。 麓 ふもと )に 大手 おおて )の跡など、人の 教 をし )ふるにまかせて 涙 ( なみだ )を 落 おと )し、 又 ( また )かたはらの 古寺 ふるでら )に 一家 いっけ )の 石碑 ( せきひ )を残す。 中にも 二人 ( ふたり )の 嫁 ( よめ )がしるし、 先 ま )づあはれなり。 女なれどもかひがひしき名の世に 聞 ( きこ )えつるものかなと 袂 たもと )をぬらしぬ。 堕涙 だるい )の 石碑 ( せきひ )も遠きにあらず。 寺に 入 い )りて茶を 乞 ( こ )へば、ここに 義経 よしつね )の 太刀 たち )、 弁慶 ( べんけい )が 笈 おい )をとどめて 什物 じゅうもつ )とす。 "笈も太刀も 五月にかざれ 紙幟" おいもたちも さつきにかざれ かみのぼり) 五月朔日 さつきついたち )の事なり。 その夜 飯塚 ( いいづか )にとまる。 温泉 いでゆ )あれば 湯 ( ゆ )に入りて 宿 ( やど )をかるに、 土座 どざ )に 莚 むしろ )を 敷 ( し )きて、あやしき 貧家 ひんか )なり。 灯 ともしび )もなければ ゐ ( い )ろりの 火 ほ )かげに 寝所 ねどころ )をまうけて 臥 ふ )す。 夜に 入 い )りて 雷鳴 かみな )り、雨しきりに 降 ふり )て、 臥 ふ )せる上よりもり、 蚤 ( のみ )・ 蚊 か )にせせられて 眠 ( ねむ )らず。 持病 じびょう )さへおこりて、 消 ( き )え 入 い )るばかりになん。 短 ( みじ )か 夜 よ )の空もやうやう 明 あ )くれば、また 旅立 たびだ )ちぬ。 なほ 夜 よる )の 余波 なごり )、 心 こころ )すすまず。 馬 ( うま )かりて 桑折 こおり )の 駅 ( えき )に 出 い )づる。 遥 はる )かなる 行末 ゆくすえ )をかかへて、かかる 病 やまひ ) 覚束 おぼつか )なしといへど、 羇旅辺土 きりよへんど )の 行脚 あんぎゃ )、 捨身無常 しゃしんむじょう )の 観念 かんねん )、 道路 ( だうろ )に 死 ( し )なん、 是 こ )れ天の 命 めい )なりと 気力 きりょく ) 聊 いささ )かとり直し、 路 みち ) 縱横 じゅうおう )に 踏 ふ )んで、 伊達 だて )の 大木戸 おおきど )を 越 ( こ )す。 元禄二年のころまでは、"飯塚"と呼ばれていたが、この時代以後は "飯坂"と呼ばれるようになった。 奥の細道随行日記では"飯坂"とあるようだ。 温泉地ではあるが、 芭蕉たちが泊った所は"貧しい農家"で土間で寝、 蚤や蚊に食われ、大変な思いをしたようである。 …… 松尾芭蕉たちは元禄二年(1689年)五月三日、桑折の宿を通っている。 当時の俳人佐藤馬耳が "風流の 初めや奥の 田植歌" ふうりゅうの はじめやおくの たうえうた) …という句の短冊を埋めて、「芭蕉翁」と刻んだ石碑を建てて田植塚を作った。 "笠島は いづこさ月の ぬかり道" (かさじまは いづこさつきの ぬかりみち) 鐙摺 あぶみずり )・ 白石 しろいし )の 城 ( じょう )を 過 す )ぎ、 笠島 かさじま )の 郡 こおり )に入れば、「 藤中将実方 とうのちゅうじょうさねかた )の 塚 ( つか )はいづくの 程 ほど )ならん。 」と人にとへば、「これより 遥 はるか )右に見ゆる 山際 やまぎは )の里をみのわ・ 笠島 かさじま )といひ、 道祖神 ( どうそじん )の 社 やしろ )、かたみの 薄 すすき )、今にあり。 」と 教 ( おし )ゆ。 用水路を渡り、芭蕉碑の右側を行くこと50メートル、西行の碑とともに…。 このごろの 五月雨 ( さみだれ )に道いとあしく、身つかれ 侍 はべ )れば、よそながら 眺 なが )めやりて 過 すぐ )るに、みのわ・ 笠島 かさじま )も 五月雨 ( さみだれ )の 折 ( おり )にふれたりと、 "笠島は いづこさ月の ぬかり道" (かさじまは いづこさつきの ぬかりみち) 岩沼 いはぬま )に宿る。 武隈 たけくま )の 松 ( まつ )にこそ 目覚 めさ )むる 心地 ( ここち )はすれ。 根 ( ね )は 土際 つちぎは )より 二木 ふたき )にわかれて、むかしの 姿 ( すがた )うしなはずと 知 ( し )らる。 先 ま )づ 能因法師 のういんほうし )思ひ 出 い )づ。 往昔 そのかみ )、 陸奥守 ( むつのかみ )にて 下 ( くだ )りし人、この木を 伐 き )りて 名取川 なとりがは )の 橋杭 はしぐい )にせられたる事などあればにや、 「松はこのたび 跡 ( あと )もなし」とは 詠 よ )みたり。 代々 よよ )、あるは 伐 きり )、あるひは 植ゑ継 うえつ )ぎなどせしと 聞 ( き )くに、今はた 千歳 ちとせ )のかたちととのほひて、めでたき松のけしきになん 侍 はべ )りし。 「 武隈 たけくま )の 松 まつ )みせ 申 まう )せ 遅桜 おそざくら )」と、 挙白 きよはく )といふものの 餞別 せんべつ )したりければ、 "桜より 松は二木を 三月ごし" (さくらより まつはふたきを みつきごし) 曾良の「随行日記」には「岩沼入口ノ左ノ方二、竹駒明神ト云有リ。 ソノ別当ノ寺ノ後ニ武隈の松有。 竹がきヲシテ有。 ソノ辺、侍やしき也。 」 "桜より 松は二木を 三月ごし" (さくらより まつはふたきを みつきごし) 名取川 なとりがわ )を 渡 わた )って 仙台 ( せんだい )に 入 い )る。 あやめふく日なり。 旅宿 ( りょしゅく )を 求 ( もと )めて 四五日 ( しごにち ) 逗留 とうりゅう )す。 ここに 画工 がこう ) 加右衛門 かえもん )といふものあり。 聊 いささ )か心あるものと 聞 き )きて、知る人になる。 この者、「 年 とし )ごろさだかならぬ 名 ( な )どころを 考 かんが )へ 置 ( お )き 侍 はべ )れば」とて、 一日 ひとひ ) 案内 あない )す。 宮城野 みやぎの )の 萩 はぎ )茂りあひて、秋のけしき思ひやらるる。 玉田 ( たまだ )・よこ 野 ( の )・つつじが 岡 ( おか )はあせび 咲 さく )ころなり。 日影 ひかげ )ももらぬ松の林に 入 い )りて、ここを 木 ( こ )の 下 ( した )といふとぞ。 昔 ( むかし )もかく 露 ( つゆ )ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。 薬師堂 ( やくしどう )・ 天神 ( てんじん )の 御社 みやしろ )など 拝 おがみ )て、その日はくれぬ。 なほ、 松島 ( まつしま )・ 塩釜 しおがま )の 所々 ( ところどころ ) 画 え )にかきて送る。 かつ 紺 こん )の 染緒 そめお )つけたる 草鞋 わらじ )二足 餞 はなむけ )す。 さればこそ、風流のしれもの、ここに至りてその 実 じつ )を 顕 あらわ )す。 "あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒" (あやめぐさ あしにむすばん わらじのお) 、 かの 画図 えず )にまかせてたどり 行 ゆ )けば、おくの 細道 ( ほそみち )の 山際 やまぎは )に 十符 とふ )の 菅 すげ )あり。 今も 年々 ( としどし ) 十符 とふ )の 菅菰 すがごも )を 調 ととの )へて、 国守 こくしゆ )に 献 けん )ずといへり。 この辺りの道が「 細 ( ほそ )い 道 ( みち )」だったようだ。 壺碑 つぼのいしぶみ ) 市川村多賀城 ( いちかわむらたがじょう )にあり。 つぼの 石 ( いし )ぶみは、高サ 六尺余 ろくしゃくあまり )、 横三尺 ( よこさんじゃく )ばかりか。 苔 こけ )を 穿 うが )ちて 文字 ( もんじ ) 幽 かす )かなり。 四維国界 しいこくかい )の 数里 ( すうり )をしるす。 「 此城 このしろ )、 神亀 じんき ) 元年 ( がんねん )、 按察使鎮守符将軍大野朝臣東人之所置也 あぜちちんじゅふしょうぐんおほののあそんあづまひとのおくところなり )。 天平宝字 てんぴようほうじ )六年、 参議東海東山節度使 さんぎとうかいとうさんのせつどし )、 同将軍恵美朝臣 おなじくしょうぐんえみのあそん ) 朝狩 あさかり ) 修造也 おさめつくるなり )。 十二月 朔日 ついたち )」とあり。 聖武 ( しょうむ ) 皇帝 ( こうてい )の 御時 おおんとき )に 当 ( あた )れり。 むかしよりよみ 置 おけ )る 歌枕 うたまくら )、 多 おほ )くかたり 伝 つた )ふといへども、山 崩 くづれ )、川 流 ながれ )て、道あらたまり、石は 埋 うずも )れて土にかくれ、木は 老 お )いて 若木 わかき )にかはれば、 時移 ( ときうつ )り 代 よ ) 変 ( へん )じて、その 跡 あと )たしかならぬ事のみを、ここに至りて 疑 うたが )ひなき 千歳 せんざい )の 記念 かたみ )、今 眼前 ( がんぜん )に 古人 ( こじん )の心を 閲 けみ )す。 行脚 あんぎゃ )の 一徳 いつとく )、 存命 ぞんめい )の 悦 ( よろこ )び、 羇旅 きりよ )の 労 ( ろう )を 忘 ( わす )れて、なみだも 落 ( お )つるばかりなり。 それより 野田 ( のだ )の 玉川 ( たまがわ )・ 沖 ( おき )の石を 尋 たづ )ぬ。 末 すえ )の 松山 まつやま )は寺を 造 つくり )て、 末松山 まつしょうざん )といふ。 松のあひあひみな 墓原 はかはら )にて、 はねをかはし 枝 ( えだ )をつらぬる 契 ちぎ )りの末も、 終 つい )にはかくのごときとかなしさも 増 まさ )りて、 塩釜 しおがま )の 浦 ( うら )に 入相 いりあい )のかねを 聞 ( き )く。 五月雨 ( さみだれ )の空 聊 いささか )はれて、 夕月夜 ゆうづくよ ) 幽 かす )かに、 籬 まがき )が 島 しま )もほど近し。 蜑 あま )の 小舟 おぶね )こぎつれて、 肴 さかな )わかつ 声々 ( こえごえ )に、「つなでかなしも」とよみけん心もしられて、いとど あはれなり。 その夜、 目盲法師 ( めくらほうし )の 琵琶 ( びわ )をならして、 奥浄瑠璃 ( おくじょうるり )といふものをかたる。 平家 ( へいけ )にもあらず、 舞 ( まい )にもあらず、ひなびたる 調子 ( ちょうし )うち 上 ( あ )げて、 枕 ( まくら )ちかうかしましけれど、 さすがに 辺土 ( へんど )の 遺風 ( いふう ) 忘 ( わす )れざるものから、 殊勝 ( しゅしょう )に 覚 ( おぼ )えらる。 早朝 ( そうちょう )、 塩釜 しおがま )の 明神 ( みょうじん )に 詣 もう )づ。 国守 こくしゅ ) 再興 ( さいこう )せられて、 宮柱 みやばしら )ふとしく 彩椽 さいてん )きらびやかに、石の 階 きざはし ) 九仭 くじん )に 重 かさ )なり、 朝日 ( あさひ )あけの 玉垣 たまがき )を 輝 ( かがや )かす。 かかる道の 果 はて )、 塵土 じんど )の 境 さかい )まで、 神霊 しんれい )あらたにましますこそ、わが 国 ( くに )の 風俗 ( ふうぞく )なれと、いと 貴 たふと )けれ。 神前 ( しんぜん )に古き 宝燈 ほうとう )あり。 かねの 戸 ( と )びらの 面 ( おもて )に、「 文治 ( ぶんじ )三年 和泉 いづみの ) 三郎 さぶらう ) 奇進 きしん )」とあり。 五百年 ( ごひゃくねん ) 来 ( らい )の 俤 おもかげ )、 今 ( いま )目の前にうかびて、そぞろに 珍 めづら )し。 かれは勇義忠孝の 士 ( し )なり。 佳命 かめい )今に至りて、したはずといふ事なし。 誠 まことに )人 能 よ )く道を 勤 つと )め、義を 守 ( まも )るべし。 「名もまたこれにしたがふ」といへり。 日 既 すで )に 午 ご )にちかし。 船 ( ふね )をかりて 松島 ( まつしま )にわたる。 その 間 ( かん )二里 余 よ )、 雄島 おじま )の 磯 いそ )につく。 曾良の随行日記によると元禄二年五月八日(陽暦六月二十四日)午後二時頃、 塩釜に着いた芭蕉は野田の玉川、末の松山などの歌枕を巡り帰った。 「宿、治兵へ、法蓮寺門前。 …」とあり止宿したのは、この付近である。 隆盛をきわめた塩釜神社別当法蓮寺は明治四年廃寺となった。 宿泊した場所は塩釜神社の東参道の入り口付近とされ芭蕉の止め宿の碑がある。 抑 そもそも )ことふりにたれど、松島は 扶桑 ふそう )第一の 好風 かうふう )にして、およそ 洞庭 どうてい )・ 西湖 せいこ )を 恥 は )ぢず。 東南より海を 入 いれ )て、 江 え )の 中 うち ) 三里 ( さんり )、 浙江 せっこう )の 潮 うしお )をたたふ。 島々の数を 尽 つく )して、 欹 そばだ )つものは天を 指 ゆびさし )、伏すものは波に 匍匐 はらば )ふ。 あるは 二重 ふたえ )にかさなり、 三重 みえ )に 畳 たた )みて、左にわかれ右につらなる。 負 おへ )るあり 抱 いだ )けるあり、 児孫 じそん )愛すがごとし。 松の緑こまやかに、 枝葉 しよう ) 汐風 しおかぜ )に 吹 ふ )きたわめて、 屈曲 くっきよく )おのづからためたるが如し。 その 気色? 然 けしきようぜん )として、美人の 顔 かんばせ )を 粧 よそお )ふ。 ちはやぶる神のむかし、 大山 おおやま )つみのなせるわざにや。 造化 ぞうか )の 天工 てんこう )、いづれの人か筆をふるひ、 詞 ことば )を 尽 ( つ )くさむ。 雄島 おじま )が 磯 いそ )は地つづきて、海に 出 い )でたる島なり。 雲居禅師 うんごぜんじ )の 別室 ( べつしつ )の 跡 あと )、 坐禅石 ざぜんせき )などあり。 はた松の 木陰 こかげ )に世をいとふ人も 稀々 まれまれ )見え 侍 はべ )りて、 落 おち )ぼ・ 松笠 まつかさ )など 打煙 うちけふり )たる草の 庵 いほり ) 閑 しず )かに 住 す )みなし、いかなる人とは知られずながら、 先 ま )づなつかしく 立 ( た )ち 寄 ( よ )るほどに、 月海 つきうみ )にうつりて、昼のながめまたあらたむ。 江上 こうしょう )に帰りて宿を 求 もと )むれば、窓をひらき二階を 作 つく )りて、風雲の 中 ( うち )に 旅寝 たびね )するこそ、あやしきまで 妙 たえ )なる 心地 ここち )はせらるれ。 "松島や 鶴に身をかれ ほととぎす" 曾良 ( そら ) (まつしまや つるにみをかれ ほととぎす) 予 ( よ )は口をとぢて、眠らんとしていねられず。 旧庵をわかるる時、 素堂 そだう )松島の詩あり。 原安適 はらあんてき )松がうらしまの 和歌 ( わか )を贈らる。 袋 ふくろ )を 解 と )きて、こよひの友とす。 かつ、 杉風 さんぷう )・ 濁子 じょくし )が 発句 ほっく )あり。 右側の句碑が曾良の句碑です。 十一日、 瑞岩寺 ずいがんじ )に 詣 もう )づ。 当寺三十二世 ( たうじさんじふにせ )の 昔 むかし )、 真壁 まかべ )の 平四郎 へいしろう )出家して、 入唐 にっとう )、 帰朝 ( きてう )の 後 のち )開山す。 その後に、 雲居禅師 うんごぜんじ )の 徳化 とくくわ )によりて、 七堂 ( しちどう ) 甍 いらか ) 改 あらた )まりて、 金壁 こんぺき ) 荘厳 しょうごん )光を 輝 かがや )かし、 仏土成就 ぶつどじょうじゅ )の 大伽藍 だいがらん )とはなれりける。 かの 見仏聖 けんぶつひじり )の寺はいづくにやとしたはる。 十二日、平泉と心ざし、あねはの松・ 緒 お )だえの橋など 聞 ( き )き 伝 つた )へて、 人跡 じんせき ) 稀 まれ )に、 雉兎 ( ちと )・ 蒭蕘 すうじょう )の行きかふ道、そこともわかず、 終 つい )に道ふみたがへて、石の巻といふ 湊 みなと )に 出 い )づ。 「こがね花 咲 さ )く」とよみて 奉 たてまつ )りたる 金花山 きんかざん )、 海上 ( かいじょう )に見渡し、数百の 廻船 かいせん ) 入江 いりえ )につどひ、 人家 ( じんか )地をあらそひて、 竃 かまど )の煙 立 たち )つづけたり。 思ひかけずかかる所にも 来 きた )れるかなと、宿からんとすれど、 更 ( さら )に宿かす人なし。 曾良の随行日記によると「日和山と云へ上ル 石ノ巻中不残見ゆル奥ノ海 目前也 真野萱原も少見ゆル」と日和山からの眺望が記されています。 "雲折々 人を休める つきみかな" 石巻を後にした芭蕉たちは、北上川に沿った一の関街道を平泉へと足を運んだ。 途中、この八雲神社へ参拝した。 "川上と この川下や 月の友" やうやうまどしき 小家 ( こいえ )に一夜をあかして、 明 あく )れば又しらぬ道まよひ行く。 袖 そで )のわたり・尾ぶちの 牧 まき )・ 真野 まの )の 萱原 かやはら )などよそ目に見て、 遥 はる )かなる 堤 つつみ )を行く。 心細き長沼にそうて、 戸伊摩 といま )とふ所に一宿して、 平泉 ( ひらいずみ )に 至 いた )る。 その 間 かん ) 二十 ( にじゅう )余里ほどとおぼゆ。 "降津とも 竹植える日は 美能登笠" "此の梅に 牛も初音と なきつべし" "梅が香に のっと日の出る 山路かな" 三代の 栄耀 えいよう ) 一睡 いつすい )の 中 うち )にして、 大門 ( だいもん )のあとは一里こなたにあり。 秀衡 ひでひら )が 跡 あと )は 田野 でんや )に 成 な )りて、 金鷄山 きんけいざん )のみ形を残す。 先 ま )づ 高館 たかだち )にのぼれば、北上川 南部 なんぶ )より流るる 大河 ( たいが )なり。 衣川 ころもがは )は 和泉 いずみ )が 城 じょう )をめぐりて、 高館 ( たかだち )の 下 ( した )にて大河に 落 お )ち入る。 康衡 やすひら ) 等 ら )が 旧跡 きゅうせき )は、 衣 ころも )が 関 せき )を 隔 へだ )てて 南部口 なんぶぐち )をさしかため、 夷 えぞ )をふせぐと見えたり。 さても 義臣 ( ぎしん )すぐつてこの 城 しろ )にこもり、 功名 こうみやう ) 一時 いちじ )の 叢 くさむら )となる。 「国破れて 山河 さんが )あり、城春にして 草青 くさあお )みたりと。 」笠うち 敷 し )きて、時のうつるまで なみだを 落 ( おと )し 侍 ( はべ )りぬ。 "夏草や 兵どもが 夢の跡" (なつくさや つはものどもが ゆめのあと) "卯の花に 兼房みゆる 白毛哉" 曾良 ( そら ) うのはなに かねふさみゆる しらがかな) かねて 耳驚 みみおどろか )したる二堂 開帳 かいちょう )す。 経堂 きようどう )は 三将 ( さんしょう )の像をのこし、 経蔵(経堂) 金色堂 光堂 ひかりどう )は三代の 棺 ひつぎ )を納め、 三尊 さんぞん )の 仏 ほとけ )を安置す。 七宝 しっぽう ) 散 ち )りうせて、 珠 たま )の扉風にやぶれ、 金 こがね )の柱 霜雪 そうせつ )に 朽 くち )て、 既 すでに ) 頽廃空虚 たいはいくうきょ )の 叢 くさむら )となるべきを、四面 新 あら )たに 囲 かこ )みて、 甍 いらか )を 覆 おお )ひて風雨を 凌 しのぐ )。 暫時 しばらく ) 千歳 ちとせ )の 記念 かたみ )とはなれり。 金色堂覆堂 "五月雨の 降のこしてや 光堂" (さみだれの ふりのこしてや ひかりだう) 松尾芭蕉の俳句「夏草や兵どもが夢の跡」を新渡戸稲造が英訳し、 毛筆で揮毫した句碑。 "夏草や 兵どもが 夢の跡" ( The summer grass 'Tis all that's left Of ancient warriors dreams ) 南部道 なんぶみち ) 遥 はる )かに見やりて、 岩手 いわて )の里に泊る。 小黒崎 おぐろさき )、みづの 小島 おじま )を 過 す )ぎて、 鳴子 なるご )の湯より 尿前 しとまえ )の関にかかりて、 出羽 でわ )の国に 越 こ )えんとす。 この道旅人 稀 まれ )なる所なれば、 関守 せきもり )にあやしめられて、 漸 ようよ )うとして関をこす。 大山 たいざん )をのぼつて日 既 すで )に 暮 く )れければ、 封人 ほうじん )の家を見かけて 舎 やどり )を求む。 三日 風雨 ( ふうう )あれて、よしなき山中に 逗留 とうりゅう )す。 "蚤虱 馬の尿する 枕もと" (のみしらみ うまのばりする まくらもと) あるじのいふ、これより 出羽 でわ )の国に大山を 隔 へだ )てて、道さだかならざれば、道しるべの人を 頼 たの )みて 越 こ )ゆべきよしを 申 ( もう )す。 さらばといひて、人を 頼 たの )み 侍 はべ )れば、 究竟 くっきょう )の若者、 反脇指 そりわきざし )をよこたへ、 樫 かし )の 杖 つえ )を 携 たずさ )へて、我々が先に 立 た )ちて行く。 「けふこそ 必 かなら )ずあやうきめにもあふべき日なれ。 」と 辛 から )き思ひをなして 後 あと )について行く。 あるじのいふにたがはず、 高山 こうざん ) 森々 しんしん )として 一鳥 いっちょう )声きかず、 木 こ )の 下 した ) 闇 やみ )茂りあひて、夜る行くがごとし。 雲端 うんたん )に 土 つち )ふる心地して、 篠 しの )の中 踏 ( ふ )み分け踏み分、水をわたり岩に 蹶 つまづ )きて、肌につめたき汗を流して、 最上 もがみ )の 庄 しょう )に出づ。 かの 案内 あんない )せし 男 ( おのこ )のいふやう、「この道必 かなら )ず 不用 ぶよう )の事あり。 恙 つつが )なう送りまいらせて 仕合 しあはせ )したり。 」と、 よろこびてわかれぬ。 あとに 聞 き )きてさへ胸とどろくのみなり。 尾花沢 おばなざわ )にて 清風 せいふう )と いふ 者 もの )を 尋 たづ )ぬ。 かれは 富 と )める者なれども、 志 こころざし )いやしからず。 都にも 折々 おりおり )かよひて、さすがに旅の 情 なさけ )をも 知 し )りたれば、 日 ひ )ごろとどめて、 長途 ちようど )のいたはり、さまざまにもてなし 侍 はべ )る。 "涼しさを 我が宿にして ねまる也" (すずしさを わがやどにして ねまるなり) "這出よ かひやが下の ひきの声" (はいいでよ かひやがしたの ひきのこえ) 水海道市の報国寺(Map-Code 18 643 834 にて撮影。 "まゆはきを 俤にして 紅粉の花" (まゆはきを おもかげにして べにのはな) "蚕飼する 人は古代の すがた哉" 曾良 ( そら ) (こがいする ひとはこだいの すがたかな) 山形領に 立石寺 りっしゃくじ )といふ 山寺 やまでら )あり。 慈覚大師 じかくだいし )の 開基 かいき )にして、 殊 こと )に 清閑 せいかん )の地なり。 一見 ( いっけん )すべきよし、人々の 勧 すす )むるに 依 より )て、 尾花沢 ( おばなざわ )よりとってかへし、その 間 かん )七里ばかり なり。 日いまだ 暮 くれ )ず、 麓 ふもと )の 坊 ぼう )に宿かり 置 お )きて、山上の堂にのぼる。 岩に 巌 いわお )を 重 かさ )ねて山とし、 松柏 しょうはく ) 年 とし )ふり、 土石 どせき ) 老 おい )て 苔 こけ )なめらかに、 岩上 がんじょう )の 院々 いんいん ) とびらを 閉 と )ぢて、物の 音 ( おと )聞えず。 岸をめぐり、岩を 這 は )ひて、 仏閣 ぶっかく )を拝し、 佳景 かけい ) 寂寞 せきばく )として心すみ行くのみ 覚 おぼ )ゆ。 "閑さや 巌にしみ入 蝉の聲" しずかさや いわにしみいる せみのこえ) …若い頃にこの地に来た時とまた趣が違う。 その当時は、松尾芭蕉や 曾良の銅像はなかった。 … …山形に非常に素晴らしい場所があると人々に勧められたので、 尾花沢より戻って立石寺、そして、山の上のお堂まで登った。 この"せみ塚"は芭蕉の俳句の短冊をここへ埋めて石塚を立てた。 … …真ん中のお堂が立石寺を開いた慈覚大師のお堂で大師の木造の尊像が安置されている。 左の小さなお堂は納経堂でその直下に大師が眠る入定窟(にゅうじょうくつ)がある。 右上の建屋が五大堂といわれる道場である。 道場からの眺めは また最高である。 … 五大堂からの眺望! …6月1日(陽歴7月17日)新庄の風流亭を訪ねる途中で、 芭蕉は涼しげな柳と清水を観て休息した。 風流亭へ着いたとき の挨拶の句として、… "水の奥 氷室尋ぬる 柳かな" (みずのおく ひむろたずぬる やなぎかな) …風流亭で2泊して、最上川の上船の場、本合海へ向かった。 … もがみ川のらんと、 大石田 おおいしだ )といふ所に 日和 ひより )を 待 まつ )。 ここに古き 俳諧 はいかい )の 種 ( たね )こぼれて、わすれぬ花のむかしをしたひ、 蘆角 ろかく ) 一声 いつせい )の心をやはらげ、 この道にさぐりあしして、 新古 しんこ )ふた道にふみ 迷 ( まよ )ふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき 一巻 ひとまき ) 残 のこ )しぬ。 この度の風流、 ここに至れり。 もともとは、 "五月雨を 集めて涼し 最上川" (さみだれを あつめてすずし もがみがわ) と、詠まれていたが再校して「涼し」から「早し」と変えている。 最上川は、みちのくより 出 い )でて、山形を 水上 みなかみ )とす。 ごてん・はやぶさなど 云 いふ )おそろしき 難所 なんじょ )あり。 板敷山 いたじきやま )の北を 流 なが )れて、 果 は )ては 酒田 さかた )の海に 入 い )る。 左右 さゆう ) 山 やま )おほひ、茂みの中に船を 下 くだ )す。 これに稲つみたるをや、いな舟といふならし。 は 青葉 あおば )の 隙々 ひまひま )に 落 お )ちて、 仙人堂 せんにんどう ) 岸に 臨 のぞ )みて 立 た )つ。 水みなぎつて、舟あやふし。 "五月雨を 集めて早し 最上川" (さみだれを あつめてはやし もがみがわ) …本合海より乗船し、この清川で上陸して、 狩川を通って羽黒山へと向かった。 その当時の清川は 最上川の水の関所として栄えていた。 … 六月三日、 羽黒山 はぐろさん )に登る。 図司左吉 ずしさきち )といふ者を 尋 たづ )ねて、 別当代会 べっとうだいえ ) 覚阿闍梨 がくあじゃり )に 謁 えっ )す。 南谷 みなみだに )の別院に 舎 やどり )して、 憐愍 れんみん )の情こまやかにあるじせらる。 四日、本坊において 俳諧 はいかい ) 興行 こうぎょう )。 "有難や 雪をかほらす 南谷" (ありがたや ゆきをかほらす みなみだに) 五日、 権現 ごんげん )に詣づ。 当山 開闢 かいびゃく ) 能除大師 のうじょだいし )は、いづれの 代 よ )の人といふ事を知らず。 延喜式 えんぎしき )に 羽州里山 うしゅうさとやま )の神社とあり。 書写 しょしゃ )、黒の字を里山となせるにや、羽州黒山を中略して羽黒山といふにや。 出羽といへるは、鳥の 毛羽 もうう )をこの国の 貢 みつ )ぎに 献 たてまつ )ると 風土記 ( ふどき )に 侍 はべ )るとやらん。 月山 ( がっさん )・ 湯殿 ( ゆどの )を 合 ( あ )はせて 三山 ( さんざん )とす。 当寺 武江東叡 ぶこうとうえい )に属して、 天台止観 てんだいしかん )の月明かに、 円頓融通 えんどんゆづう )の 法 のり )の 灯 ともしび )かかげそひて、僧坊 棟 むね )をならべ、 修験行法 しゅげんぎょうほふ )を 励 はげ )まし、 霊山霊地 ( れいざんれいち )の 験効 げんこう )、 人 貴 ( とうと )びかつ恐る。 繁栄 長 とこしな )へにして、めでたき 御山 みやま )と 謂 い )つつべし。 八日、 月山 ( がっさん )にのぼる。 木綿 ゆう )しめ身に 引 ひ )きかけ、 宝冠 ほうかん )に 頭 かしら )を 包 つつ )み、 強力 ごうりき )といふものに 導 みちび )かれて、 雲霧山気 うんむさんき )の中に 氷雪 ひょうせつ )を 踏 ふ )んで登る 事 こと )八里、更に 日月 じつげつ )行道の 雲関 うんかん )に 入 い )るかとあやしまれ、 息絶 いきた )え身こごえて、頂上に 至れば、日 没 ぼつ )して月あらはる。 笹をしき、 篠 しの )を枕として、 臥 ふ )して 明 あかる )くを 待 ま )つ。 日 出 い )でて 雲 くも ) 消 き )ゆれば、 湯殿 ( ゆどの )に 下 くだ )る。 谷の 傍 かたわら )に 鍛冶小屋 かじごや )といふあり。 この国の 鍛冶 かじ )、 霊水 れいすい )を 撰 えらび )て、ここに 潔斎 けっさい )して 剣 つるぎ )を 打 うち )。 終 つい )に 月山 ( がっさん )と 銘 めい )を 切 き )つて世に賞せらる。 かの 龍泉 りょうせん )に 剣 つるぎ )を 淬 にら )ぐとかや。 干将 かんしょう )・ 莫耶 ばくや )のむかしをしたふ、道に 堪能 かんのう )の 執 しゅう )あさからぬ事しられたり。 岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜の つぼみ 半 ( なか )ばひらけるあり。 ふり 積 つ )む雪の下に 埋 うづ )もれて、春をわすれぬ遅ざくらの花の心わりなし。 炎天 えんてん )の 梅 ばい )花ここにかほるがごとし。 行尊僧正 ぎょうそんそうじょう )の歌のあはれもここに思ひ出でて、なほ 哀 ( あは )れもまさりて 覚 おぼ )ゆ。 惣 そう )じて、この 山中 さんちう )の 微細 みさい )、行者の 法式 ほふしき )として 他言 たごん )する事を禁ず。 よりて筆をとどめて 記 しる )さず。 坊 ( ぼう )に 帰 かへ )れば、 阿闍梨 あじゃり )のもとめによりて、 三山順礼 さんざんじゅんれい )の 句々 ( くく ) 短冊 たんざく )に書く。 "涼しさや ほの三日月の 羽黒山" (すずしさや ほのみかづきの はぐろさん "雲の峰 幾つ崩て 月の山" (くものみね いくつくづれて つきのやま) "語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな" (かたられぬ ゆどのにぬらす たもとかな) "湯殿山 銭ふむ道の 涙かな" 曾良 ( そら ) (ゆどのやま ぜにふむみちの なみだかな) 湯殿山有料道路を通り、大鳥居から湯殿山神社までは 専用バスで5分、歩いても30分である。 神社の参拝ルートより 外れたところに 芭蕉と曾良の句碑がある。 奥にあるのが芭蕉の句碑である。 6月末であるが雪がまだ残っていた。 羽黒を 立 た )ちて、鶴が岡の城下、 ながやまうじしげゆき )と いふもののふの家にむかへられて、 俳諧 ( はいかい ) 一巻 ( ひとまき )あり。 左吉 ( さきち )も共に送りぬ。 川舟に 乗 の )りての 湊 みなと )に 下 ( ( くだ )る。 えんあんふぎょく )と いふ 医師 くすし )のもとを 宿 やど )とす。 "あつみ山や 吹浦かけて 夕すずみ" (あつみやまや ふくうらかけて ゆふすずみ) "暑き日を 海に入れたり 最上川" (あつきひを うみにいれたり もがみがわ) …日和山公園は酒田市の西にあり、酒田港や日本海を 一望できる丘の上にある。 園内には文学の散歩道として 松尾芭蕉などの句碑が設けられている。 … 、 江山水陸 こうざんすいりく )の 風光、 数 かず )を 尽 つく )して、今 象潟 きさがた )に 方寸 ほうすん )を 責 せ )む。 酒田の 湊 みなと )より東北の 方 かた )、山を 越 こえ ) 磯 いそ )をつたひ、いさごをふみて、その 際 ( さい )十里、 日影 ひかげ )ややかたぶくころ、 汐風 しおかぜ ) 真砂 まさご )を 吹 ( ふ )き 上 あ )げ、雨 朦朧 もうろう )として 鳥海 ちょうかい )の山かくる。 闇中 あんちゅう )に 莫作 もさく )して、雨もまた 奇 き )なりとせば、 雨後 ( うご )の 晴色 せいしよく )また頼もしきと、 蜑 あま )の 笘屋 とまや )に 膝 ひざ )を入れて、雨の 晴 は )るるを 待 まつ )。 その 朝 あした )、 天 ( てん )よく 霽 はれ )て、 朝日 あさひ )はなやかにさし 出 い )づるほどに、 象潟 きさがた )に舟をうかぶ。 先 ま )づ 能因島 のういんじま )に舟をよせて、三年 幽居 ( ゆうきょ )の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」と よまれし桜の 老木 おいき )、西行法師の 記念 かたみ )をのこす。 江上に 御陵 みささぎ )あり、 神功后宮 じんぐうこうぐう )の 御墓 みはか )といふ。 寺を 干満珠寺 かんまんじゅじ )といふ。 この 処 ところ )に 行幸 みゆき )ありし事いまだ 聞 き )かず。 いかなる事にや。 この 寺 てら )の 方丈 ほうじょう )に 坐 ざ )して 簾 すだれ )を 捲 ま )けば、風景 一眼 いちがん )の 中 うち )に尽きて、南に鳥海天をささへ、その 影 かげ )うつりて 江 え )にあり。 西は 、 路 みち ) をかぎり、東に堤を 築 きづ )きて、秋田にかよふ道 遥 はる )かに、 海 うみ )北にかまえて、波うち入るる所を 汐 しほ )こしといふ。 江 ( え )の 縱横 じゅうおう )一里ばかり、 俤 おもかげ )松島にかよひて、また 異 こと )なり。 松島 ( まつしま )は 笑 ( わら )ふがごとく、 象潟 ( きさがた )はうらむがごとし。 寂しさに悲しみをくはへて、 地勢 ちせい ) 魂 たましひ )をなやますに似たり。 三崎峠の古道を曾良と越えたのは、元禄2年6月16日(1689年現在の暦で8月1日)であった。 その昔、 有耶有耶 ( むやむや )の関が あったというこの難所をやっと越えて象潟へ入って行った。 "象潟や 雨に西施が ねぶのはな" (きさがたや あめにせいしが ねぶのはな) "汐越や 鶴脛ぬれて 海涼し" (しほこしや つるはぎぬれて うみすずし" 祭礼 ( さいれい ) "象潟や 料理何くふ 神祭" 曾良 ( そら ) (きさがたや れうりなにくふ かみまつり) "蜑の家や 戸板を敷て 夕涼" 美濃の国の商人 低耳(ていじ) (あまのやや といたをしきて ゆふすずみ) 岩上に 雎鳩 みさご )の 巣 す )を見る "浪こえぬ 契ありてや みさごの巣" 曾良 ( そら ) なみこえぬ ちぎりありてや みさごのす …旅の目標の一つである"象潟"へやってきた。 現在の象潟 とは趣が全然異なり、当時は松島のように島が沢山あり 島の周りを船で回遊するようなところであった。 しかし、 大地震で海底が隆起したためほとんどが陸地となってし まった。 当時の景観を思わせるような地名"九十九島" だけは残っている。 … 酒田の 余波 なごり )日を 重 かさ )ねて、 北陸道 ほくろくどう )の雲に 望 のぞむ )。 遥々 ようよう )のおもひ 胸 むね )をいたましめて、加賀の 府 ( ふ )まで百三十里と 聞 き )く。 鼠 ねず ) の関をこゆれば、越後の地に 歩行 あゆみ )を 改 あらた )めて、越中の国 市振 ( いちぶり )の 関 せき )に 到 いた )る。 この 間 かん )九日、 暑湿 しょしつ )の労に 神 しん )をなやまし、 病おこりて事をしるさず。 "文月や 六日も常の 夜には似ず" (ふみずきや むいかもつねの よるにはにず) …旅の第二の目的である"象潟"を訪れ、南下を始めた。 酒田から新潟までは船を利用したようである。 新潟では、此処、石船町が最初に訪れたところである。 ちょうど、七夕の前日である。 … 、 "荒海や 佐渡によこたふ 天河" (あらうみや さどによこたふ あまのがわ) …北陸道(ほくろくどう:国道7号線)を南下して、 日本海と佐渡島、そして天の川を観て、あの有名な句を詠む、 また、此処は、あの有名な でもある。 … 今日 きょう )は 親 おや )しらず子しらず・犬もどり・ 駒返 こまがへ ) しなどいふ 北国 ほっこく )一の 難所 なんじょ )を 越 こ )えて、つかれ 侍 はべ )れば、 枕 まくら ) 引 ひ )きよせて 寝 ( ね )たるに、 一間 ひとま ) 隔 へだ )てて 面 おもて )の 方 かた )に、若き女の 声 ( こえ ) 二人計 ( ふたりばかり )ときこゆ。 年 とし ) 老 おひ )たるおのこの声も 交 まじ )りて 物語 ものがたり )するを聞けば、 越後 ( えちご )の国 新潟 にひがた ) といふ所の 遊女 ゆうぢよ )なりし。 伊勢 ( いせ )に 参宮 ( さんぐう )するとて、 この関までおのこの送りて、あすは 古郷 ふるさと )にかへす 文 ふみ )したためて、はかなき 言伝 ことづて )などしやるなり。 「 白波 しらなみ )のよする 汀 なぎさ )に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう 下 くだ )りて、定めなき 契 ちぎり )、日々の 業因 ごういん )、いかにつたなし」と物いふを聞く聞く 寝入 ねい )りて、あした 旅立 たびたつ )に、我々にむかひて、「 行方 ゆくえ )知らぬ 旅路 たびぢ )のうさ、あまり 覚 おぼ )つかなう悲しく 侍 はべ )れば、見えがくれにも 御跡 おんあと )をしたひ 侍 はべ )らん。 衣 ころも )の上の 御情 おんなさけ )に、 大慈 だいじ )のめぐみをたれて 結縁 けちえん )せさせ 給 たま )へ」と 涙 なみだ )を 落 おと )す。 不便 ふびん )の事には 侍 はべ )れども、「 我々 ( われわれ )は 所々 ( ところどころ )にてとどまる 方 かた )おほし。 ただ人の 行 ( ゆ )くにまかせて 行 ( ゆ )くべし。 神明 しんめい )の 加護 かご )、かならず 恙 つつが )なかるべし。 」といひ 捨 す )てて 出 い )でつつ、 哀 あは )れさしばらくやまざりけらし。 "一つ家に 遊女も寝たり 萩と月" (ひとつやに ゆうじょもねたり はぎとつき) 曾良 ( そら )にかたれば、 書 ( か )きとどめ 侍 はべ )る。 …新潟県の海岸線を南下して、市振の関所につく。 このあたりの海岸線は、 親知らず、子知らずと云って、崖沿いの道を歩かなければならなかった。 … "しばらくは 花のうへなる 月夜かな" (しばらくは はなのうえなる つきよかな) …芭蕉たちが奥の細道を行脚しているときは北陸道の街道沿いにあった。 1880年頃、北陸道の街道から現在の場所に移転された。 境内には有磯塚がある。 … "わせの香や 分入右は 有磯海" (わせのかや わけいるみぎは ありそうみ) …此処、水橋神社の拝殿には、奉納の絵馬が多くある。 なかでも、 源義経の絵馬が有名である。 … "あかあかと 日は難面くも 秋の風" (あかあかと ひはつれなくも あきのかぜ) くろべ 四十八 ( しじゅうはち )か 瀬 せ )とかや、 数 ( かず )しらぬ川をわたりて、 那古 なご )といふ 浦 ( うら )に 出 い )づ。 担籠 たご )の 藤浪 ふじなみ )は、春ならずとも、 初秋 はつあき )のあはれとふべきものをと、人に 尋 たづ )ぬれば、「 これより五里、 磯 いそ )づたひして、むかふの山陰に入り、 蜑 あま )の 苫 とま )ぶきかすかなれば、 蘆 あし )の 一夜 ひとよ )の宿かすものあるまじ」といひおどされて、 加賀 ( かが )の国に 入 い )る。 "わせの香や 分け入る右は 有磯海" (わせのかや わけいるみぎは ありそうみ) …放生津八幡宮(ほうしょうづはちまんぐう)には、芭蕉の句碑のほかに、 大伴家持が越中の国司在任中に詠んだ歌の歌碑もある。 … 、 …此処、奈古の浦は万葉にも詠まれた名所である。 松尾芭蕉もここで句を詠んだ。 … "早稲の香や わけ入類右は あ里磯海" (わせのかや わけいるみぎは ありそうみ) 卯 う )の 花山 はなやま )・くりからが 谷 ( だに )をこえて、 金沢 ( かなざわ )は七月 中 なか )の 五日 いつか )なり。 ここに 大坂 おおざか )よりかよふ 商人 あきんど ) 何処 かしょ )といふ者あり。 それが 旅宿 りょしゅく )をともにす。 一笑 いっしょう )といふ者は、この 道 みち )にすける名のほのぼの 聞 きこ )えて、世に 知人 しるひと )も 侍 はべ )りしに、 去年 こぞ )の冬、 早世 そうせい )したりとて、その兄 追善 ついぜん )を 催 もよほ )すに、 "塚もうごけ 我が泣く声は あきの風" (つかもうごけ わがなきごえは あきのかぜ) …金沢では、一笑(小杉一笑)と会えると思っていたが既に亡くなっていた。 句会では、その悲しみを句として詠んでいる。 … ある草庵にいざなはれて "秋涼し 手毎にむけや 瓜茄子" (あきすずし てごとにむけや うりなすび) …市振りでは親不知、子知らずを通って、大変な思いをした。 此処、金沢では一週間ほど滞在した。 … 途中 ( とちゅう ) 吟 ぎん ) "あかあかと 日は難面も あきの風" (あかあかと ひはつれなくも あきのかぜ) "ちる柳 あるじも我も 鐘をきく" (ちるやなぎ あるじもわれも かねをきく) …本長寺の句碑は、次のようである。 … "春もやや けしき調ふ 月と梅" (はるもやや けしきととのう つきとうめ) 金沢から小松へ行く途中で詠まれた句である。 同様の句が成学寺にもある。 "あかあかと 日は難面も 秋の風" (あかあかと ひはつれなくも あきのかぜ) 小松といふ所にて "志をらしき 名や小松ふく 萩薄" (しをらしき なやこまつふく はぎすすき) …このような句を詠んでいる。 兎橋神社… …建聖寺にて、… "志をらしき 名や小松ふく 萩薄" (しをらしき なやこまつふく はぎすすき) …本折日吉神社にて、… "しほらしき 名や小松ふく 萩すすき" (しほらしき なやこまつふく はぎすすき) この所 太田 ただ )の神社に 詣 まう )づ。 実盛 さねもり )が 甲 かぶと )・ 錦 にしき )の 切 きれ )あり。 住昔、 源氏 ( げんじ )に 属 ぞく )せし 時 ( とき )、 義朝 よしとも )公より 給 たま )はらせ 給 たま )ふとかや。 げにも 平士 ひらざむらい )のものにあらず。 目庇 まびさし )より 吹返 ふきがへ )しまで、 菊 きく )から 草 ( くさ )のほりもの 金 こがね )をちりばめ、 竜頭 たつがしら )に 鍬形 くわがた ) 打 う )ちたり。 実盛 さねもり ) 討死 ( うちじに )の 後 のち )、 木曾義仲 きそよしなか ) 願状 がんじょう )にそへて、この 社 ( やしろ )にこめられ 侍 はべる )よし、 樋口 ひぐち )の次郎が 使 つかひ )せし事ども、まのあたり 縁紀 えんぎ )にみえたり。 "むざんやな 甲の下の きりぎりす" (むざんやな かぶとのしたの きりぎりす) 、 山中 やまなか )の 温泉 いでゆ )に行くほど、 白根 しらね )が 嶽 たけ ) 跡 あと )にみなしてあゆむ。 左の 山際 やまぎは )に 観音堂 ( かんのんどう )あり。 花山 かざん )の法皇、三十三 所 ( しょ )の 順礼 じゅんれい )とげさせ 給 たま )ひて 後 のち )、 大慈大悲 だいじだいひ )の像を 安置 あんち )し 給 たま )ひて、 那谷 なた )と 名付 な )づけ 給 たま )ふとなり。 那智 なち )・ 谷汲 たにぐみ )の二字をわかち 侍 はべ )りしとぞ。 奇石 きせき )さまざまに、 古松 こしょう ) 植 う )ゑならべて、 萱 かや )ぶきの 小堂 しょうどう )、岩の上に造りかけて、 殊勝 しゅしょう )の土地なり。 "石山の 石より白し 秋の風" (いしやまの いしよりしろし あきのかぜ) 、 に 浴 よく )す。 その 効 こう ) 有明 ありあけ )に 次 つ )ぐといふ。 "山中や 菊はたおらぬ 湯の匂" (やまなかや きくはておらし ゆのにおい) あるじとする 者 もの )は、 久米之助 くめのすけ )とて、いまだ 小童 せうどう ) なり。 かれが父 俳諧 はいかい )を好み、 洛 らく )の 貞室 ていしつ ) 若輩 じゃくはい )のむかし、ここに 来 きた )りしころ、 風雅 ふうが )に 辱 はずか )しめられて、 洛 らく )に 帰 かへ )りて 貞徳 ていとく )の門人となつて世にしらる。 功名 こうめい )の 後 のち )、この 一村 ( いっそん ) 判詞 はんじ )の 料 れう )を 請 う )けずといふ。 今更 いまさら )、昔がたりとはなりぬ。 曾良 ( そら )は腹を 病 や )みて、 伊勢 ( いせ )の国 長島 ながしま )といふ所にゆかりあれば、 先立 さきだ )ちて行くに、 "行き行きて たふれ伏とも 萩の原" 曾良 ( そら ) (ゆきゆきて たふれふすとも はぎのはら) と 書 ( か )き 置 お )きたり。 行くものの悲しみ、 残 のこ )るもののうらみ、 隻鳧 せきふ )のわかれて 雲 くも )にまよふがごとし。 予もまた、 "今日よりや 書付消さん 笠の露" (けふよりや かきつけけさん かさのつゆ) 、 大聖寺 だいしょうじ )の城外、 全昌寺 ぜんしょうじ )といふ寺にとまる。 なほ 加賀 ( かが )の地なり。 曾良 ( そら )も前の夜、この寺に 泊 とまり )て、 "終夜 秋風聞くや うらの山" 曾良 ( そら ) (よもすがら あきかぜきくや うらのやま) と残す。 一夜 いちや )の 隔 へだて )千里に同じ。 吾 われ )も秋風を 聞 きき )つつ 衆寮 しゅうりょう )に 臥 ふせ )ば、 明 あけ )ぼのの空近う 読経 どきょう )声すむままに、 鐘板 しょうばん ) 鳴 な )つて 食堂 じきどう )に 入 い )る。 けふは 越前 ( えちぜん )の国へと、心 早卒 さうそつ )にして 堂下 だうか )に 下 ( くだる )るを、若き 僧 ( そう )ども紙・ 硯 すずり )をかかえ、 階 きざはし )のもとまで 追 おひ ) 来 きた )る。 折節 おりふし ) 庭中 ていちゅう )の 柳 ( やなぎ )散れば、 "庭掃いて 出でばや寺に ちる柳" (にわはいて いでばやてらに ちるやなぎ) とりあへぬさまして 草鞋 わらじ )ながら 書 ( か )き 捨 ( す )つ。 、 越前 ( えちぜん )の 境 さかい )、 吉崎 よしざき )の 入江 いりえ )を舟に 棹 さお )さして、 汐越 しおごし ) の松を 尋 たづ )ぬ。 終宵 よもすがら )嵐に波をはこばせて 月をたれたる 汐越 しほごし )の松 西行 この一首にて、 数景 すけい )つきたり。 もし 一辨 いちべん )を 加 くは )ふるものは、 無用 むよう )の指を 立 た )つるがごとし。 この遺跡は、芦原ゴルフクラブの海側の松林の中にあります。 イベントで非常に忙しいなか、迷わない所まで案内をしていただきました。 感謝 丸岡 ( まるおか ) 天龍寺 ( てんりゅうじ )の 長老 ちょうろう )、古き 因 ちなみ )あれば 尋 たづ )ぬ。 又、金沢の 北枝 ほくし )といふもの、かりそめに見送りて、この 處 ところ )までしたひ 来 ( きた )る。 所々 ところどころ )の風景 過 すぐ )さず思ひつづけて、 折節 おりふし )あはれなる 作意 さくい )など 聞 き )こゆ。 今 ( いま ) 既 すでに ) 別 わか )れに 望 のぞ )みて、 "物書て 扇引さく 余波哉" (ものかいて おおぎひきさく なごりかな) 五十丁 ( ごじゅっちょう )山に 入 い )りて 永平寺 ( えいへいじ )を 礼 らい )す。 道元禅師 どうげんぜんじ )の 御寺 おんでら )なり。 邦畿 ほうき ) 千里 せんり )を 避 さ )けて、かかる 山陰 やまかげ )に跡をのこし 給 たま )ふも、 貴 とうと )き 故 ゆへ )ありとかや。 …金沢からお供をしてきた北枝(ほくし)も此の天龍寺で金沢へ戻って行った。 … 、 福井 ( ふくい )は 三里 ( さんり ) 計 ばかり )なれば、 夕飯 ゆうめし )したためて 出 い )づるに、たそかれの 路 みち )たどたどし。 ここに 等栽 とうさい )といふ古き 隠士 いんし )あり。 いづれの年にか、江戸に 来 きた )りて 予 ( よ )を 尋 たづ )ぬ。 遥 はる )か 十 と )とせ 余 あま )りなり。 いかに 老 おい )さらぼひてあるにや、 将 はた )、 死 しに )けるにやと人に 尋 たづ )ね 侍 はべ )れば、「いまだ 存命 ぞんめい )して、そこそこ」と、おしゆ。 市中 ( しちゅう )ひそかに 引 ( ひ )き 入 い )りて、あやしの 小家 こいへ )に 夕顔 ゆふがほ )・へちまのはえかかりて、 鶏頭 けいとう )・ 帚 ( ほうき ) 木 ( ぎ )に 戸 と )ぼそをかくす。 さては、このうちにこそと 門 かど )をたたけば、 侘 わび )しげなる女の 出 い )でて、「いづくよりわたり給ふ 道心 どうしん )の 御坊 ごぼう )にや。 あるじはこのあたり何がしといふものの 方 かた )に行きぬ。 もし用あらば 尋 たづ )ね 給 たま )へ。 」といふ。 かれが妻なるべしとしらる。 むかし物がたりにこそかかる 風情 ふぜい )は 侍 はべ )れと、やがて 尋 たづ )ねあひて、その家に 二夜 ふたや )とまりて、名月は 敦賀 ( つるが )のみなとにと 旅 ( たび ) 立 だ )つ。 等栽 ( とうさい )も共に送らんと、 裾 すそ )おかしうからげて、 路 みち )の 枝折 しおり )とうかれ 立 た )つ。 洞哉が住んでいた家の正確な場所ははっきりとしていませんが、 洞哉が芭蕉の枕にと木片をかりたお堂が、左内町の顕本寺に建て られたことが明らかになり、この付近に住んでいたことがわかった。 (説明板より) 漸 ようよ )う 白根 しらね )が 嶽 たけ )かくれて、 比那 ひな )が 嵩 たけ )あらはる。 あさむづの橋を 渡 ( わた )りて、 玉江 たまえ )の 蘆 あし )は 穂 ほ )に 出 い )でにけり。 鴬 うぐいす )の 関 せき )を 過 す )ぎて、 湯尾 ゆのお ) 峠 ( とうげ )を 超 こ )ゆれば、 燧 ( ひうち )が 城 じょう )・ 帰山 かえるやま )に 初雁 はつかり )を 聞 き )きて、 十四日 ( じゅうよっか )の夕ぐれ、 敦賀 ( つるが )の 津 つ )に 宿 やど )をもとむ。 その夜、月 殊 こと )に 晴 は )れたり。 「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「 越路 こしじ )の 習 なら )ひ、なほ 明夜 めいや )の 陰晴 いんせい )はかりがたし。 」と、あるじに酒すすめられて、 気比 ( けひ )の 明神 みょうじん )に 夜参 やさん )す。 仲哀天皇 ちゅうあいてんのう )の 御廟 ごびゅう )なり。 社頭 しゃとう ) 神 かん )さびて、松の 木 こ )の 間 ま )に月のもり 入 い )りたる、おまへの 白砂 はくさ ) 霜 しも )を 敷 し )けるがごとし。 「 往昔 そのかみ ) 遊行 ゆぎょう )二世の 上人 しょうにん )、 大願發起 だいがんほっき )の事ありて、みづから草を 刈 か )り、 土石 どせき )を 荷 にな )ひ、 泥渟 でいてい )をかはかせて、 参詣往来 さんけいおうらい )の 煩 わづら )ひなし。 古例 これい )今にたえず、 神前 ( しんぜん )に 真砂 まさご )を 荷 にな )ひ 給 たま )ふ。 これを「 遊行 ( ゆうこう )の 砂持 すなもち )と 申 ( もう )し 侍 はべ )る。 」と、 亭主 ていしゅ )のかたりける。 "月清し 遊行のもてる 砂の上" (つききよし ゆぎやうのもてる すなのうえ) 十五日 ( じゅうごにち )、亭主の 詞 ( ことば )にたがはず 雨 ( あめ ) 降 ( ふ )る。 "名月や 北国日和 定なき" めいげつや ほくこくびより さだめなき "ふるき名の 角鹿や恋し 秋の月" (ふるきなの つのがやこいし あきのつき) 、 気比神宮の大鳥居前に銅像がある。 お砂持ち神事の由来 正安3年(1301年)に、時宗2代目遊行上人他阿真教が 諸国巡錫の砌、敦賀に滞在中、気比社の西門前の参道、 その周辺が沼地(この時代には気比神宮のあたりまで入江であった) となって参拝者が難儀しているのを知り、 浜から砂を運んで道を造ろうと上人自らが先頭に立ち、 神官、僧侶、多くの信者等とともに改修にあたられたという故事に因み、 「遊行上人のお砂持ち神事」として今日まで時宗の大本山遊行寺 (藤沢市の清浄光寺)管長が交代した時にこの行事が行われている。 (説明板より) (Map-Code 192 849 153) …文化センターの句碑は、松尾芭蕉が敦賀の月夜の海の素晴らしさを詠んだ句である。 … "国々の 八景更に 気比の月" (くにぐにの はっけいさらに けひのつき) …金前寺の句碑は、次のようである。 … "月いづこ 鐘は沈る うみのそこ" (つきいづこ かねはしずむる うみのそこ) 「芭蕉翁鐘塚」 十六日 ( じゅうろくにち )、 空 そら ) 晴 は )れたれば、ますほの 小貝 こがい )ひろはんと、 種 いろ )の 浜 はま )に舟を 走 はし )らす。 海上 かいじょう ) 七里 ( しちり )あり。 天屋 てんや ) 何某 なにがし )といふもの、 破籠 わりご )・ 小竹筒 ささえ )などこまやかにしたためさせ、 僕 しもべ )あまた舟にとりのせて、 追風 おいかぜ )時の間に 吹 ( ふ )き 着 つ )きぬ。 浜はわづかなる 海士 あま )の 小家 こいへ )にて、 侘 わび )しき 法花寺 ほっけじ )あり。 ここに茶を 飲 の )み、酒をあたためて、夕ぐれのさびしさ、 感 かん )に 堪 た )へたり。 "寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋" (さみしさや すまにかちたる はまのあき) 、 "浪の間や 小貝にまじる 萩の塵" (なみのまや こがいにまじる はぎのちり) その日のあらまし、 等栽 とうさい )に 筆 ( ふで )をとらせて寺に 残 ( のこ )す。 "衣着て 小貝拾わん いろの月" (ころもきて こがいひろわん いろのつき) …明星輪寺の句碑は、次のようである。 … "鳩の声 身に入わたる 岩戸哉" (はとのこえ みにしみわたる いわどかな) …本龍寺の句碑は、次のようである。 … "作り木の 庭をいさめる しくれ哉" (つくりきの にわをいさめる しくれかな) 大垣藩の近藤如行(じょこう)をはじめ多くの門弟を門下にした。 元禄7年大阪で病死すると、 正覚寺に芭蕉の追悼碑を最も早くたてた。 また、木因の死後、木因碑をたてて、 この地を「芭蕉・木因」遺跡とした。 "あかあかと 日はつれなくも 秋の風" (あかかかと ひはつれなくも あきのかぜ) 露通 ろつう )もこのみなとまで 出 い )でむかひて、 美濃 ( みの )の国へと 伴 とも )なふ。 駒 こま )にたすけられて 大垣 おおがき )の 庄 しょう )に 入 い )れば、 曾良 ( そら )も伊勢より 来 きた )り 合 あ )ひ、 越人 えつじん )も馬をとばせて、 如行 じょこう )が家に 入 い )り 集 あつ )まる。 前川子 ぜんせんし )・ 荊口 けいこう ) 父子 ふし )、その 外 ほか )したしき 人々 ( ひとびと ) 日夜 ( にちや )とぶらひて、 蘇生 そせい )のものにあふがごとく、かつ 悦 よろこ )び、かついたはる。 旅 ( たび )の物うさもいまだやまざるに、 長月 ながつき ) 六日 ( むいか )になれば、 伊勢 いせ )の 遷宮 せんぐう )おがまんと、また舟にのりて "蛤の ふたみに別 行秋そ" (はまぐりの ふたみにわかれ ゆくあきぞ) …元禄2年8月21日(1689年10月4日)駒にたすけられて(馬に 乗って)大垣に入り"蛤の ふたみに別 行秋そ"を詠んで奥の細道 最後の句にした。 そして、再び船町港 から へと旅立った。

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ひむか の 風 に さそ われ て

自分 じぶん の 正直 しょうじき な 気持 きも ちが 言えない ばかりに、いつも 損 そん をしています。 あと1点 足 た りなかった ばかりに、 不合格 ふごうかく でした。 余計 よけい な 一言 ひとこと を 言った ばかりに、彼女の 機嫌 きげん を悪くさせてしまった。 梅酒 うめしゅ を 飲み 過 す ぎた ばかりに、 気分 きぶん が悪くなって 吐 は いてしまいました。 息子 むすこ が かわいい ばかりに、 甘 あま やかして育ててしまいました。 女性 じょせい である ばかりに、 土俵 どひょう に上がったと 騒 さわ がれる。 こどもの 頃 ころ 、 髪 かみ の毛が 短 みじか い ばかりに、男の子と 間違 まちが われて 嫌 いや でした。 歌が 下手 へた な ばかりに、カラオケに 誘 さそ われても行きたくありません。 英語 えいご が 話せない ばかりに、 外国人 がいこくじん の 方 かた とコミュニケーションを 取 と るのが 難 むずか しい。 花粉症 かふんしょう である ばかりに、お 花見 はなみ が楽しめず、とても 残念 ざんねん です。

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