嫌 われる 勇気 要約。 『嫌われる勇気』

「嫌われる勇気」の要約|青リンゴ君|note

嫌 われる 勇気 要約

「誰かを嫌うと、その相手からも嫌われる」とよくいわれる。 これは、よくいわれていることが正しいとはかぎらないよい例だ。 つまり、よくいわれているだけで、実際には誤っている。 言い換えれば、誤ったことが「よくいわれている」だけのこと。 「誰だって自分に敵意を向けてくる者を好きになれない」 あなたが誰かを嫌う理由は、ただそれだけだ。 その人があなたのことを嫌ったのは、間違っても、あなたが嫌ったからではない。 もしそうだとしたら、「他人の感情をコントロールできる」ことになってしまう。 ありえない話だ。 その人があなたに対して無関心な場合は、あなたがその人を勝手に嫌っているだけ。 一方、「その人に自分も嫌われているな」と感じる場合は、あなたが先に嫌われたということ。 相手はあなたに嫌われていることすら、気づいていない。 つまり、その人は自分の嫌な面に気づかされ、あなたのことなど気にする余裕すらない。 単に、あなた(の中に見える自分)のことを気に入らないだけだ。 そもそも、「嫌われている」と感じるということは、相手自体に意識が向いている。 つまり、自分を見てはいないし、他者を観察する冷静さがある。 そのときのあなたは、あくまでも他者から発せられるネガティブなエネルギーを感じ取っているだけで、実際には嫌われているわけではない。 その人の表情や言動から、勝手に自分が嫌われていると勘違いしてしまうのだ。 つまり、「人に嫌われる」ということは 自分の嫌な面を見せられた誰かが、あなたの中に見て取れる「その人自身の性質」を勝手に嫌っている にすぎない。 結局、あなたのことなんかどうでもよくて、自分のことが気に入らないだけ。 その理由はズバリこうだ。 「嫌われる勇気なんてはじめから必要ない」ことを知らない人が多いから。 この記事を読み終えたあなたは、嫌われることが何でもないことだと気づけたことだろう。 そして、「はじめから勇気なんか要らないものだ」ということも。

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jupiter.schoolinks.com: 嫌われる勇気 eBook: 岸見 一郎, 古賀 史健: Kindleストア

嫌 われる 勇気 要約

「アドラー心理学」について書かれた以前から評判の本書。 知人から強く勧められたので借りて読んでみた。 「哲人」と「青年」の対話篇という珍しい形式をとっている。 せっかくなのでメモを取りながら読み進めてみたのだが、 特にメモを読み返して自分の中に響いた部分をまとめてみたいと思う。 このまとめはあくまで個人的な関心に基づいて書かれている。 本書の要点はここにまとめられた限りではないということは一応書いておく。 「嫌われる勇気」とは何か 「嫌われる勇気」というタイトルが示すものは何か。 もしかしたら「」など 著名な自己啓発書を読んだことがある人なら何となく予想がつくかもしれない。 本書では「他者の承認を求めてはいけない」とはっきりと書かれている。 個人的に興味を持ったのはこのあたりだった。 哲人 たしかに、他者の期待を満たすように生きることは、楽なものでしょう。 自分の人生を、他人任せにしているのですから。 たとえば親の敷いたレールの上を走る。 ここには大小さまざまな不満はあるにせよ、レールの上を走っている限りにおいて、道に迷うことはありません。 しかし、自分の道を自分で決めようとすれば、当然迷いは出てきます。 「いかに生きるべきか」という壁に直面するわけです。 先行きへの不安、リスクを回避するために「他者の承認」を必要とする。 周囲の目を気にする背景にはこういう態度があるかもしれない、と確かに思う。 哲人 きっとあなたは、自由とは「組織からの解放」だと思っていたのでしょう。 家庭や学校、会社、また国家などから飛び出すことが、自由なのだと。 しかし、たとえ組織を飛び出したところでほんとうの自由は得られません。 他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。 つまり、自由になれないのです。 言われてみれば当たり前のことだが、行動には常にリスクが伴う。 青年 裏切るかどうかは他者の課題であり、自分にはどうにもできないことだと?肯定的にあきらめろと?先生の議論は、いつも感情を置き去りにしています!裏切られた時の怒りや悲しみはどうするのです? 哲人 悲しいときには、思いっきり悲しめばいいのです。 痛みや悲しみを避けようとするからこそ、身動きが取れず、誰とも深い関係が築けなくなるのですから。 人と人との関係の中で痛みや悲しみをなくすことはできない。 だからこそ、他者と深い関係を築くためにコストを支払う勇気が必要となる。 うまくいくかどうか、だけで考えればコストは支払えない。 結果はいつでも、コストを支払う前ではなく後にわかる。 貨幣経済のおかげで、一定の金銭を支払えば特定の価値を得られるようになった。 それはあたかもコストを支払う前に結果は判明している、とも言える。 (金額が価値に見合わないことが判明すればクレームをつければいい) コストを支払わなければなんのフィードバックも生まれない。 言ってみれば自然界の常識であるこの事実に対して リスクを最小限に抑える試みで満たされた現代社会の仕組みのために、 当たり前に生きるということが不自由になっている、と言えるかもしれない。 僕は、これが「嫌われる勇気」なのだと解釈した。 感想など ・アドラー心理学を求める現代社会という見方 アドラー心理学にはを想起させる何かがある、気がする。 そこを掘り下げればなぜ本書が多くの読者を獲得したのかが分かるのではないか。 振り返ると、幾つかの過去記事には通底する問題意識があるように思う。 書き出すと長くなりそうなのでまた別の機会に改めて整理したいと思う。 ・個人的な評価と感想 さすがに広く読まれているだけあって読みやすいような工夫がある。 それゆえに、世に溢れている自己啓発書との差別化は難しいのかもしれない。 僕も読後の感想を本書を貸してくれた知人とシェアする中で 本の中身を越えて「この本が世に受け入れられたわけ」に思い至ることができた。 自分の内だけで閉じずに気になったところを言い合うだけでも、 人によって注目する点に違いが出てくるという当たり前のことに気づける。 それが本書の主張を実践する第一歩になるのかもしれない。

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本当は要らない「嫌われる勇気」|ほしみの|ライター✍🏻|note

嫌 われる 勇気 要約

目的論 「目的論」とはいまやっている行動はどんな行動であっても「目的」を達成するために行動しているという考え方です。 これに反対する考えとしてフロイト的な「原因論」というものがあります。 例えば、引きこもりになってしまった人がいるとします。 引きこもりになってしまったのは、親との関係や学校や職場でのいじめが原因かもしれません。 その過去の ひどい体験によって結果として現在引きこもりになっていると考えることが「原因論」です。 アドラー心理学ではこれを否定します。 目的論では、引きこもりになっているのは「外に出たくないから、不安という感情を作り出している」と考えます。 では、外に出ないことに何か目的があるのでしょうか?あるのです。 「親からの注目を一身に集めることができる。 丁寧に扱ってくれる。 」 という目的です。 この目的論は感情のコントロールにも使うことができます。 怒りという感情を例に挙げます。 母親と口論になったことはだれしもあるでしょう。 その口論の途中に電話がかかってきたら母親は声色を一瞬で変えますよね? そして、電話が終わったら血相を変えて再び怒鳴り始めます。 このとき怒りは出し入れ可能な道具となっています。 電話がかかってくれば怒りを引っ込めることもできるし、受話器を置いたら再び持ち出すこともできるのです。 このときの母親の目的は、ただ大声で子供を威圧するため、それによって自分の主張を押し通すために、怒りの感情を使っているのです。 ここまでで納得できる部分もあると思いますが納得できない部分もあると思います。 例えば、 自分の嫌な部分を変えようとしないことに目的なんかあるのかよって反論もありますよね。 僕も最初はそう考えていました。 しかし、目的があるのです。 自分を変えるときそこにはリスクが付きまといます。 周りからいきなりイメチェンして調子乗ってると思われることもあるでしょう。 もっと努力しなければならなくなることもあるでしょう。 もっと苦しく、不幸な未来になる可能性も否定できません。 自分を変えないことに目的があるのです。 それを選ぶのは自分です。 これが「目的論」という考え方です。 人生の悩みはすべて対人関係の悩み これはサブタイトルのとおり 「人生の悩みはすべて対人関係の悩み」というのがアドラーの考えです。 個人レベルの悩みもあると考えますよね? 例えばお金の問題は個人のレベルの問題な気がしますよね?でも宇宙にあなた一人しかいないならお金の意味がなくなるのです。 宇宙に自分ひとりしかいない状況を考えてみて下さい。 仕事、受験。 家庭、お金、恋愛、友人関係などの悩みはありますか?宇宙に自分一人しかいない状況の場合、これらの悩みは消え去ります。 これが人生の悩みはすべて対人関係の悩みということの証明となるのです。 人生のタスク アドラー心理学では人間の行動面と心理面のあり方についてはっきりとした目標を掲げています。 例えば、本の出版の執筆は筆者がする自己完結的な作業です。 しかし、編集者、装幀家、印刷所の方、流通、書店の方々の協力がないと成立しない仕事です。 ただし、仕事の対人関係はもっともハードルが低いのです。 仕事の対人関係は、成果というわかりやすい共通の目標があるので、少しくらいきが合わなくても協力できるし、協力せざるを得ないところがあります。 そして、 「仕事」の一点によって結ばれている関係であるかぎり、就業時間が終わったり転職したりすれば、他人の関係に戻れます。 この一番ハードルが低い対人関係につまずいてしまったのがニートや引きこもりです。 何社にも履歴書を送り、面接を受け、何回も不採用の通知を受け取る。 自尊心を傷つけられる。 あるいは、仕事で大きな失敗をする。 自分のせいで巨額の損失を会社に出してしまう、 これらは仕事がいやになったのではないのです。 仕事を通じて他者から批判され、叱責されること、無能の烙印を押され、「わたし」の尊厳を傷つけられることが嫌なのです。 学校や職場などの「場」が提供されていれば関係を築ける。 しかし、 個人的な友人関係にまで踏み出すことが難しいという人は多いのではないでしょうか? アドラー心理学は他者を変えるための心理学ではなく、自分が変わるための心理学です。 自分から一歩を踏み出して友人関係にまで発展させることが大事なのです。 愛のタスクがすべてのタスクの中でもっとも難しいです。 例えば、友人関係から恋愛に発展したとき、友達の間では許せていた言動が、許せなくなることがあります。 具体的には、異性の友達と遊びに行くことや異性との電話だけで嫉妬したりします。 それだけ距離も近いし、関係も深いのです。 しかし、アドラー心理学では相手を束縛することを認めません。 相手が幸せそうにしていたら、その姿を素直に祝福できる。 それが愛としています。 一緒にいて、どこか息苦しさを感じたり、緊張を強いられるような関係は、恋ではあっても愛ではない。 愛を実感することができるのは「 この人と一緒にいると、とても自由に振る舞える」と思えたときです。 劣等感を抱くでもなく、優越性を誇示する必要にも駆られず、平穏な、極めて自然な状態でいられる、これが本当の愛です。 ただし、恋愛関係や夫婦関係には「別れる」という選択肢があります。 しかし、親子関係では原則としてそれができません。 つまり、恋愛関係は赤い糸で結ばれた関係としたとき、 親子関係は強固な鎖で結ばれた関係と考えられるということです。 親子関係の難しさはここにあります。 では、どうすればよいと思いますか?大事なことは 逃げないということです。 アドラー心理学は勇気の心理学です。 最終的に断ち切ることになるとしても、立ち止まらず、向き合うことが大事だとアドラーは言います。 承認欲求の否定 アドラー心理学では、 他者から承認を求めることを否定します。 なぜ、ひとは承認を求めると思いますか? 身近な場面で考えてみましょう。 たとえばあなたが職場や学校に朝早く行ってごみ拾いをしたとします。 それでも周囲の人々はまったく気づかない。 あるいは、気づいたとしても誰からも感謝されない。 この状況のときあなたはごみ拾いを続けますか? あなたはほめられないならやる気がなくなりやめてしまうかもしれません。 これは 賞罰教育の影響です。 賞罰教育とは「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」「罰する人がいなければ不適切な行動もとる」という誤ったライフスタイルです。 ここで、ただ好きな人、身近な人から受け入れられたいと思っているだけだと反論するかもしれません。 でも、それも大きな間違いなのです。 僕たちは「 他者の期待を満たすために生きているのではない」のです。 これがアドラーの考えです。 この考えを理解するために「 課題の分離」という考え方が必要になります。 課題の分離 「課題の分離」とはこれは誰の課題なのか?という視点から、 自分の課題と他者の課題とを分離していく考え方です。 たとえば子どもが勉強しないでいるとします。 この「勉強する」という課題は「子どもの課題」であり、 親の課題ではありません。 このとき親が「勉強しなさい」と命じることは他者の課題に対して、土足で踏み込むことです。 あらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと、あるいは自分の課題に土足で踏み込まれることによって引き起こされます。 よって、他者の課題には踏み込まないことが重要になります。 いやいや、子供がほっといて勉強するわけがないと考える人もいるでしょう。 「子どもに勉強させること」は親の課題だと考える人もいるかもしれません。 しかし、親たちは自分の目的のために動いています。 具体的には、 世間体や見栄や支配欲などです。 では、勉強は子どもの課題だから放置するのが正しいというのがアドラー心理学なのか?と考えるかもしれません。 ここで注意しなければならないのは アドラー心理学は放任主義を推奨していないということです。 放任とは、 子どもがなにをしているのか知らない、知ろうともしない、という態度です。 そうではなく、 子どもがなにをしているのか知った上で、見守ること、勉強についていえば、それが本人の課題であることを伝え、もしも本人が勉強をしたいと思ったときにはいつでも援助をする用意があることを伝えておく。 けれども、子どもの課題に土足で踏み込むことはしない。 頼まれもしないのに、あれこれ口出してはいけないのです。 【まとめ】 嫌われる勇気 アドラー心理学の考え方を知るだけでも生き方が楽になります。 課題の分離をもう少し掘り下げると、 「信用」と「信頼」の違いに行きつくと考えます。 「信用」とは条件付きの話です。 銀行がお金を貸すとき担保として家や車などがあればそれに応じてお金を貸してくれます。 これに対して 「信頼」とは、他者を信じるにあたって、一切の条件をつけないことです。 無条件で信頼して裏切られることもあるかもしれません。 でも、想像してみてください。 あなたが裏切ってもなお、無条件に信じ続けてくれる人を。 あなたは何度もその人を裏切ることができますか? それに疑いの目を向けていることを相手は一瞬で察知します。 そこからは前向きな関係を築くことは難しい。 無条件の信頼を置くからこそ、深い関係を築けるのです。 たとえばあなたが食べ放題でたくさん食べていたとします。 このとき人によってはがっついてみっともないと考える人がいます。 一方でいい食いっぷりだな。 とプラスにとらえる人もいるでしょう。 人間関係において僕たちは「 僕たちがどうするか」だけを考えればいいのです。 他者がどうとらえるかは僕たちの問題ではなく相手の課題です。 たとえ、 嫌われても自分のタスクに集中し自分の人生を生きていくことでより良い人生にしていきたいですね。

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